戸坂城山小学校誕生物語
 
 
 
 
   
平成16年2月13日創立30周年記念式の日に
 
 
広島市立戸坂城山小学校
 
                                                                                
 
 
戸坂城山小学校誕生物語
 
戸坂小学校から分かれて
 
 戸坂の子どもが通学していた戸坂小学校は明治5年にできた歴史のある学校ですが、どんどん人数が増え、昭和48年(1974)5月には児童数が1958人となりました。次の年には子どもの数は2100人をこえるということで,教室が足りなくなることはまちがいありませんでした。
 2000人をこえる子どもたちが一つの小学校で勉強することになると、教室の問題や運動場の使い方の問題、学校行事の持ち方などいろいろな問題がおこってきます。近ごろでは、児童数が1000人をこえるだけでも多すぎるといわれているのです。2000人という数がどんなにたいへんな数か想像がつくでしょう。
 そこで、広島市は戸坂の町に新しく小学校をつくって、子どもたちを二つの学校に分けることにしました。そして、新しく学校を建てる場所を戸坂中学校の下に決め、工事にとりかかりました。
 ところが、昭和49年(1975)の2月19日に戸坂中学校の校庭からメタンガスや有害なガスが出ていることがわかりました。それは、今の戸坂中学校の運動場のあたりが以前、広島市のゴミの埋め立て地として使われていたからで、このガスは新しくできる戸坂第二小学校(戸坂新町小学校)の予定地からも出ることがわかりました。
 ガスが出るところに子どもたちが学ぶ学校を建てるわけにはいかないとPTAの人々が声をあげ、大きな社会問題となって、やがてこの場所に小学校を建てることはできなくなりました。
 もしこういう問題がなかったら、戸坂中学校の下に六角形の教室が集まった蜂の巣のような形の4階建ての校舎ができる予定でした。これは「まぼろしの蜂の巣校舎」といわれていますが、完成予想図が校長室の前の廊下にかかげてあります。
 広島市では当面、昭和49年の4月に戸坂小学校の教室をかり、さらにプレハブの教室も建てて、戸坂新町小学校を開校することに決めました。470人の子どもたちで13学級ができました。これが戸坂小学校から分かれた戸坂新町小学校の誕生です。
 
戸坂新町小学校
 
 戸坂小学校の人数が多すぎるから戸坂新町小学校ができたのに、まだいっしょに戸坂小学校で勉強していたのでは、どうしても無理が出てきます。それで、まだ新しくできつつあった東浄団地の造成地に臨時のプレハブの教室を作って、子どもたちを分けることにしました。その場所は、戸坂新町2丁目8番30号(東浄市営住宅25号館前)です。今は住宅が建ち並んでいるところですが、道路をはさんだ向かい側にある今の広島バス東浄車庫が運動場として使われました。
 こうして、「戸坂新町小学校」はプレハブの教室で戸坂新町にその場所を移すことになったのです。6月10日に戸坂小学校体育館では「分かれても、もとは同じ戸坂小学校の仲間だったのだから、いつまでもなかよくしましょう」というおわかれの式も行われました。
 戸坂新町小学校は新しく建設中の団地の中にできたので、校舎は道路をはさんで分けて建てられ、まるで何かの収容所のようだったといいます。休憩時間は道路のような所で遊んでいたという話です。学校の区切りがないので、休憩時間、ずいぶん遠くまで遊びにいっていた子もいたようです。自動車の通行などの心配もなかったのでしょう。 運動場にはビニール製の仮設のプールも作られ、夏には水泳指導も行われました。
 団地の中に臨時につくられた学校ですから、給食室はありませんでした。給食は戸坂小学校で調理されたものを毎日運んでいたのです。たいへんな苦労だったことでしょう。
 運動会は、三角形のバス回転所ではせまくて全校そろって行うことができませんでした。それで、2・6年、1・5年、3・4年と3回に分けてちがう日に行われました。たいへん不自由をしたことだと思います。でも、そういう不自由さをものともせず、むしろ不自由だからこそ、子どもたちも先生たちも元気に意欲的に新しい学校づくりにはげんだのではないでしょうか。
  第1回目の卒業式は、プレハブ校舎の2つの教室の間仕切りを取り除いておこなわれました。あいにく雨の日で、式の途中からだんだん雨がはげしくなり、プレハブの屋根を打ちつける雨音がしだいに大きくなって福田信夫校長先生の「卒業生に贈ることば」さえもよく聞きとれないほどになりました。校長先生も一生懸命大きな声を出され、卒業生も真剣に耳をかたむけていたのですが、とうとう充分に聴きとれずに式を終えなければなりませんでした。プレハブの教室ではこんな不便なこともあったのです。
 戸坂中学校の下に新しい校舎をつくるわけにいかなくなったので、広島市では城北学園の校地だった現在の場所にいよいよ新しい校舎をつくることを決め、この年の11月に工事が始まりました。新しい校舎ができるのは次の年の9月のことになります。戸坂新町にできる予定だった学校が戸坂城山にできるとなると、通学してくる子どもたちの地域も変わってきます。それまで戸坂小学校の学区だったところも、新たに戸坂新町小学校の学区に加えられてきました。
 それで2年目の昭和50年(1975)には児童数が925人で26学級にふくらむことになりました。この年の9月には新校舎もできるのですが、それまでは戸坂新町のプレハブ教室で過ごさなければなりません。新たにプレハブの4教室をつくりましたが、それでも増えた子どもたちは入りきりませんので、戸坂小学校にもプレハブ教室をつくり、さらに戸坂小学校の教室をも借りて勉強することになりました。
 これも大変不便なことでした。一つの学校が二つの場所に分かれているのですから、先生たちは職員会議のたびに行ったり来たりしなくてはなりませんでした。でも、2学期からは新しい校舎で勉強できることがはげみだったにちがいありません。
 
戸坂城山小学校  
 
 昭和50年(1975)8月に念願の新校舎ができました。現在の校舎です。プールもでき、次の年には体育館もつくられました。子どもたちはどんなに喜んだことでしょう。夏の暑いときにはプレハブ教室は太陽の熱をまともに受けてうだるような暑さになります。冬の寒いときには熱がうすい屋根や壁から逃げてしまって身もこおるような寒さになります。雨の降る日は屋根に当たる雨音で先生の声もかき消されそうになります。そんな中でがんばってきた子どもたちに新校舎はすばらしい贈り物でした。
 東校舎は3階、西校舎は4階建ての新しい学校でもすぐに子どもたちが増えてしまってプレハブ教室をつくらなくてはなりませんでした。昭和51年には2教室分、昭和52年にはさらに4教室分がつくられました。このころの児童数をみると、昭和50年が925人、昭和51年が1144人、昭和52年が1341人というぐあいに年々200人ぐらいずつ増えています。 現在の戸坂城山小学校の児童数が400人足らずですから、1年間に今の児童数の半分ぐらいずつ増えたことになります。
 昭和53年には1499人となってしまいました。このままいくと戸坂城山小学校でも教室が間に合わなくなるのはまちがいありません。
 それで、広島市は戸坂に3番目の学校として中山新町に新しい学校をつくることを決め、次の年(昭和54年)に東浄小学校ができました。この年、東浄小学校の児童数は858人、戸坂城山小学校の児童数は869人ですから、ちょうど半分に分かれたことになります。
 新しく東浄小学校ができて、戸坂新町も東浄小学校の学区になってしまいました。いつまでも戸坂新町小学校という名前を使うわけにもいきませんし、学校の所在地の戸坂城山という町名をとって「戸坂城山小学校」という名前に変わることになりました。昭和54年(1979)の4月のことです。思い出深い「戸坂新町小学校」の看板は校長室前の廊下にかざってあります。
 戸坂新町小学校の校章はプレハブ教室で開校した昭和49年に当時の寄重弘光先生がデザインを考えてつくられていましたが、戸坂城山小学校に変わったときにその校章にあった「戸坂新」の文字をとって校章にしました。校旗をよく見ると、はじめの時にはあった「戸坂新」の文字のところがきれいにししゅうで消されているのがわかります。
 また、戸坂城山小学校の校歌はそれまでの戸坂新町小学校の校歌を使うわけにはいきませんので、昭和55年(1980)1月に当時の城北学園の校長先生だった西本篤武先生に詞を書いていただき、そのときの音楽の先生だった多田良子先生に曲をつけていただいて新しくつくられました。多田先生は、今もPTAコーラスの指導に毎月お見えになるというご縁が続いています。
 
これからの戸坂城山小学校
 
 戸坂城山小学校の誕生にはこんなにも苦労があったのだということをぜひ覚えておいてほしいと思います。そしてたいへんな思いをして生まれた学校だからこそ、みんなで大切にし、誇りを持てる学校に育て上げていきたいものだと思います。
 今でもこの学校には自慢できる良いものがたくさんあります。春の桜の花はどうでしょう。運動場の回りやみんなが通ってくる赤坂の桜並木は目をうばわれるようです。桜の花の下を歩くと本当に心がすがすがしくなります。
 この桜の木も赤坂も、これまで戸坂城山小学校を育てていかれた先輩の先生方や子どもたち、それに地域の方々の労力によって備えられたものです。
 赤坂が整備されたときには、「学校は公園ではない!」と市の方になかなか受け入れてもらえなかったようですが、地域の方の熱心な働きかけもあって今のようなたいへんきれいな道ができたのです。みなさんにとって、毎日赤坂を上っていくことはとてもしんどいことかもしれませんが、きっと大人になったときに、小学生のころきれいな赤坂をふうふういいながら上って登校したことをなつかしく思い出す日が来ることでしょう。
 赤坂が公園の道のようになっていることと合わせて、学校に木が多いこともわたしたちに安らぎを与えてくれています。戸坂城山小学校はほんとうに自然と調和している学校なのです。
 運動場も水はけが良くなるようにようにきれいに整備されました。そのときにそれまであったいろいろなテントを使うのをやめて、同じ型のテントに統一したそうです。これは地域の方々の協力がなければとうていできないことだったでしょう。それで今でも運動場はきれいに使われていますし、よほどのことがない限り運動場に車を入れないなど細心の注意がはらわれています。
 児童玄関などにかわいらしい絵が描かれています。以前の業務員さんが描かれたようですが、戸坂城山小学校にはこうした先人の夢や願いがいっぱいたくされているような気がします。
 今でも、先生たちはみなさんに豊かな心を育み、明るい未来を切り開いてくれる子に育ってくれることを願って仕事をすすめています。ふと気がつくと壁がきれいになっていたり、こわれていたところが修理されていることがあるでしょう。授業や行事の中で先生たちがどんなふうにみなさんに心をかたむけて話をされているか気がつく人はいるでしょうか。「難産の子はよく育つ」ともいいますが、その誕生で苦労した戸坂城山小学校ですから、きっとりっぱに成長していくと思います。わたしたちみんなの力ですばらしい学校に育てていきましょう。 
  (戸坂城山小学校創立10周年・20周年記念誌より取材し書き下ろしました)