広島に原爆の落とされた日

                               (平和集会にむけての話)
 
 昭和二十年(一九四五年)八月六日、その日は広島市民にとって忘れてはならない日となりました。広島市民にとってだけでなく、日本国民、いや、世界中の人々が記憶しなくてはならない日となったのです。
 その日、世界で、この地球上で初めてふつうの生活をしている人々の頭上に原子爆弾が落とされました。それはかつてなかったような大きな被害をもたらし、建物も人間も破壊しつくしました。生き残った人々をさえもさらに苦しめる後遺障害をもたらしました。
 原子爆弾というものの恐ろしさをこの身で体験した広島市民、日本国民は原子爆弾の正体をいつまでも世界に向けて語り伝えていかなくてはならない義務も背負ったといえるのです。もし、広島で一九四五年八月六日に何が起こったのですかと聞かれたなら、こんなことが実際に起こったのですと伝えていく責任が私たちにはあるのです。
  
 一枚の写真があります。その日、広島の上空から撮影した原子爆弾の投下されたときの写真です。大きなキノコ雲が大空に向かってわき起こっています。そのキノコ雲の姿は異様で見る者に恐怖の念を起こさせます。
 でも、その雲の下では二十万人もの人々が生活していたのです。私たちと全く同じような人々が普段通りの生活をしていたのです。その上から、いきなりハンマーでたたきつけるがごとく、原子爆弾は落とされたのです。
 では、その下で暮らしていた人々が遭遇した原子爆弾の被害とはいったいどんな様子だったのでしょうか。
 
 私たちの住んでいる戸坂の町にその当時暮らしていた人の体験記録が残されています。昭和五十二年三月、戸坂公民館でまとめられ、発行された「戸坂 原爆の記録」という本です。その中から、当時数甲二丁目に住んでいらっしゃった下田登野与さんの話をもとにしながら、昭和二十年八月六日、その日の戸坂の町の状況をお知らせしたいと思います。
 
 役場で事務の仕事をしておられた下田さんは出勤のしたくをして家を出たところで、空がピカッと光ったのに眼がくらみ、急いで家の中に入りました。そのとたん、ドドーンというものすごい爆風がふいてきて、天井はみんなめくれあがり、しょうじはたおれ、南側のしょうじのさんはみなふっとんでしまいました。その時おばあさんはえんがわで縫い物をしていましたが、右手に小さい火ぶくれができていました。
 めちゃめちゃになった家をかたづけなくては・・ と思い直していると、役場から呼び出しがありました。そこで、家のことはさておいて役場へと向かいました。
 
 当時、役場は戸坂小学校の隣にありました。その役場に向かうとちゅう、田に引く小川の水を手ですくって飲んでいる人がいました。見ると、着物はボロボロで、髪の毛は焼けてちりぢりになっていました。
 下田さんが役場に近づくとすでに全身真っ黒に焼けた大ぜいの人がつめかけていました。広島の町から逃げてきた人たちです。道にはたくさんの人が倒れていましたので、その人たちをまたがなければ役場に入れませんでした。戸坂小学校の運動場のはしはイモ畑になっていましたが、そこにもたくさんの人がころがって、口々に
「水! 水! 水をください」
と言っていました。
 
 下田さんはさっそく、役場の横の柳の木の下で、戸坂に逃げてきた人の受付を始めました。口のきける人にはみんな「名前」「住所」「年齢」を聞き取り、台帳に記録しました。この台帳は後で親族を捜しに来た人にとても役立ちました。下田さんはその日の四時半から五時ごろまでかけて無我夢中で受け付けをしました。
 必死で受付をしていたので、暑さもまったく気になりませんでしたが、気がついたら頭が熱くなっていたそうです。
 
 昼を過ぎてからやってくる人は肉のくさったようなにおいがとてもきつく、手やくちびるは垂れ下がったままというありさまでした。着ているものも引き裂かれたようになっており、切れはしがたれさがったままでした。
 それらの人たちは学校に着くなり、ぐったりしてそこらじゅうに寝ころんでいました。
 
 下田さんの家では二人の見習い士官と六人の軍人お世話することになりました。
 次の日から、その人たちへの食事の世話をし、病人の看護をしながら役場へ出かけていきました。
 
 八月七日から二〜三日は下田さんは学校に寝ている人でまだ受付をすませてない人の受付をしたり、病人の間を見回ったりしました。
 苦しさのあまり、教室の中を
「殺してくれ。殺してくれ」
と言って走り回っている人もいました。
 どの人も一様に
「水をくれ、水をくれ」
と言って水をほしがっていましたが、「水を飲むと死んでしまう。水を飲ませてはいけない」という命令が出ていましたので、水を与えることはできませんでした。 
 
 原爆にやられた人は体じゅうがやけどのようになっていましたので、農家の人たちがきゅうりをすった汁をつけに来てくださっていました。中にあまりけがをしていない男の子が二人いましたので、
「君たち、親といっしょに来たの?」
と聞くと、
「だれかについてきた」
と言っていました。このように親とはぐれ、家族とも離ればなれになった人も多かったのです。
 やがて、その二人はどこかへ行ってしまいました。
 市内から、身内の人をさがしに来た人もたくさんいましたが、受付で作った台帳がたいへん役に立ちました。
 
 下田さんの家で世話をしていた見習い士官の一人はけがもひどく、自分でごはんを食べることもできないありさまでした。それで、下田さんはつきっきりでごはんを食べさせたそうです。また、服が体にくっついて、無理にぬがそうとすると皮膚がはがれたりするので、オキシフルでぬらして服を脱がせ、着替えさせるようなこともしたそうです。
 
 下田さんに限らず、当時の戸坂の人々はみんな原爆にあって広島の町から逃げてきた人を親切にかいほうしたり、食事を食べさせたりするなどの世話をしたのです。婦人会の人は一人残らず戸坂小学校にかけつけ、たきだしの手伝いをしたり、病人の看病にあたったりして、献身的にはたらいたのです。
 
 人類がかつて経験したことのない恐ろしい原子爆弾はまちがいなく今から六十年近く前、この広島の町に落とされたのです。そして、その時戸坂の町に住んでいた人たち、中にはみなさんの親戚の人もいたかもしれませんが、みんな原爆の被害にあって苦しんでいる人たちを一生懸命助けようとされたのです。
 一生懸命助けようとしても助けきれず、次々と亡くなっていった人も多かったことでしょう。
 死んだ人は二〜三人ずつ車につんで桜ヶ丘やくるめ木神社の方面に運び、二〜三十人ずつ焼いたということです。
 
 私たちが暮らしているこの戸坂の地で、過去にそんな出来事があったことをぜひみなさんも忘れないようにしてほしいものです。