戸坂の歴史
      
第1章  大むかしの戸坂
 
西山貝塚
 
 大むかしの暮(く)らしを探る手がかりに貝塚(かいづか)があります。貝塚というのは昔の人のゴミ捨(す)て場のようなもので、土器のかけらなども埋(う)もれていて、当時の人々の暮らしぶりが想像できます。
 戸坂には縄文時代(じょうもんじだい)の貝塚は発見されておらず、牛田山(西山)の山頂付近で弥生時代(やよいじだい)の貝塚が発見されているだけです。現在、牛田山に登ってみると、山頂からちょっと下りたところに西山貝塚の案内板が立っています。
 
 案内板には次のように書かれています。

 貝塚とは、当時の人々が食べ残したものや不用となったものを捨てた場所のことで、
 そこから発見される遺物によって当時の人々の生活、習慣、文化など多くのことを
 知ることができます。この西山貝塚は千八百年前ごろの弥生時代のものでカキや
 ハマグリの貝殻(かいがら)に混じり、土器、石器、鉄器、青銅器(せいどうき)、骨角器(こっかくき)などが見つかって
 います。特に巴形銅器(ともえがたどうき)とよばれる青銅器は県内でも出土(しゅつど)例がない貴重なものです。
 また、この西山貝塚は、太田川流域(りゅういき)の他の弥生時代の遺跡(いせき)と比べて丘陵(きゅうりょう)上の高い
 地点に位置しており、「高地性集落」として広く知られています。
                         
                                                                                 東区役所 管理課
 
 
 西山貝塚から発見された貝がらは、カキ・ハマグリ・アサリなどの海産のものに混じってヤマトシジミなどの淡水産(たんすいさん)のものもあるようです。
 西山貝塚は他の遺跡(いせき)と比べても高い位置にあります。出土している鉄器や銅器が軍事的なものが多いところから考えると、防衛的(ぼうえいてき)、軍事的な色彩(しきさい)を帯(お)びた集落があったのではないかと考えらます。
 牛田山の山頂付近でこの時代の人がどんなことを思い、どんな生活をしていたのか、想像してみるのも楽しいことではありませんか。
 この西山の貝塚は261mの地点、258mの地点など、4カ所の貝塚が発見されており、258m地点からは住居跡も発掘されています。
 
 縄文時代の貝塚でこの近くで発見されたものとしては、中山小学校の裏(うら)で見つかった中山貝塚があります。縄文時代の遺跡は戸坂にはありませんが、中山貝塚から想像される昔の暮(く)らしとほぼ同じような暮らしが戸坂でもあったのではないでしょうか。 
 
長尾古墳(こふん)
 
 人々が集まり住んでムラができ、やがてだんだん人が多くなってクニができると、力を持った人をほうむる古墳が造られました。戸坂にもいくつかの古墳が発見されています。弥生時代の終わりごろから古墳時代の初めのころにかけて造られたのが、戸坂山根の禅昌寺(ぜんしょうじ)西遺跡と桜ヶ丘古墳です。
 禅昌寺西遺跡からは箱式石棺5基、土壙(どこう)墓1基、区域外から土壙墓4基が検出されています。(土壙墓というのは、地面に穴を掘り下げたお墓のことです)
 この遺跡は東西10メートル、南北7メートルの方墳だったのではないかと考えられています。この遺跡から出土しているのは、壺棺(つぼかん)として用いられたと考えられている土師器(はじき)の壺形土器のほか、剣、刀、やじり、おの、鎌(かま)、刀子(とうす)などの鉄製品です。
 禅昌寺西古墳と同時代に造られたと考えられている桜ヶ丘古墳の石棺からは骨片が発見されています。市道部分の地表下約3メートルから発見されました。
 6世紀代の古墳として、龍泉寺古墳、惣田古墳があります。
  
 長尾古墳は茶臼城山から北側へのびる標高約40mの尾根の先端(せんたん)部の太田川と戸坂の町を見渡すことができる見晴らしの良い所に位置しています。
 尾根先から円墳の2号墳、前方後円墳の1号墳、円墳の3号墳、長尾台の住宅造成地で発見された2基の古墳を加えた5基の古墳からなる古墳群です。
 その第1号墳は測量の結果、広島市内で確認されたなかでは最大級の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)であることが分かりました。
 
  なお、長尾古墳からは遺物(いぶつ)が発見されていないため、残念ながらいつごろ造られた古墳かをはっきりさせることができていません。 この古墳の立体模型(もけい)は戸坂城山小学校に保管されています。その模型を見ると当時の様子がよく分かります。
 
長尾遺跡         
 
 長尾台の団地造成(だんちぞうせい)にともなって、長尾古墳の北側にあたる場所が発掘調査(はっくつちょうさ)されました。この長尾遺跡(いせき)は竪穴住居(たてあなじゅうきょ)4軒などからなる弥生時代の終わりごろ(今から約1700年前)のムラのあとですが、見晴(みは)らしの良い小高い場所にあります。
 一番北側の住居(じゅうきょ)あとからは食料をたくわえたと考えられる穴などが見つかりました。また、この住居にたまった土の中からこわれた土器がたくさん出てきました。使われなくなった住居をごみ捨(す)て場(ば)にしたのかもしれません。
  
山陽道         
 
 ところで、戸坂はむかし、国府(こくふ)があったとされる今の府中町(ふちゅうちょう)から中山峠(なかやまとうげ)を越えて太田川に向かう山陽道の通り道にあたりました。( ※注 国府は今の西条(さいじょう)のあたりにあったという説もあります)
 そのころ、太田川は今よりももっと西の方を流れていましたから、現在、太田川の向かい側にある東原や西原は戸坂と地続(じつづ)きであったと思われます。その証拠(しょうこ)に、「倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」というそのころの本には戸坂は東原・西原とあわせて「安芸郡幡良(はら)郷」の中に入れられています。
 また、大化(たいか)の改新(かいしん)(645年)以降、全国に条里制(じょうりせい)がしかれましたが、戸坂と東原・西原には同じ条里地割(ちわ)りのあとが残っていました。条里制というのは、古代の土地の区画の方法で、約648mの正方形に土地が区分されているものです。
 それで戸坂は農産物の生産地でもあり、山陽道の通り道でもあったことからある程度栄えていた地域だと考えてもよいと思います。6世紀代まで古墳がつくられていることや長尾古墳群に前方後円墳があったこと、それが広島市内でも最大級のものであることを考えるとそういう想像をしてもおかしくないと思われます。
 当時の山陽道は中山峠から太田川に向かって真っ直ぐに下り、戸坂川の左側の道筋を通って太田川につきあたりま
す。(昔は太田川は今の古川の方が本流でしたので、そこから安川に向かってまっすぐ道が続いていたと思われます)
 この古代の道筋に従って、以前の安芸大橋は(つり橋)、戸坂川の河口あたりにかかっていたということです。(現在はその場所より少し下流にかかっています)
はじめに
第1章   大むかしの戸坂
第2章   戸坂という地名
第3章   農業の村、戸坂のくらし
第4章   災害とのたたかい
第5章   移民の村、戸坂
第6章   原爆と戸坂
第7章   水源地、戸坂
第8章   広島市戸坂町
おわりに