戸坂の歴史
      
第2章  農業の村、戸坂のくらし
 
 徳川幕府(とくがわばくふ)がたおれて武士(ぶし)の世の中は終わりました。明治時代(めいじじだい)となり、世の中のしくみがそれまでとはがらりと変わりました。矢つぎばやにいろんなきまりごとが打(う)ち出されていきました。政治(せいじ)のやり方も大きく変わりました。今まで広島藩(はん)といってたのが広島県になり、村や町の境界線(きょうかいせん)もいろいろ変わりました。
 多くの村が合わさったり、分かれたりした中で戸坂村はひとつの村として形を変(か)えずにずっと続いてきました。それで戸坂村の役場(やくば)にははじめのころからの書類(しょるい)が失(うしな)われずに大切に残されることになりました。そのころの書類は今では貴重(きちょう)な資料(しりょう)として約4千点が広島市公文書館(こうぶんしょかん)に保存(ほぞん)されています。こうした資料は当時の村の姿(すがた)、すべてを調べるのにとても役立ちます。どんなにお金をつんでも失ってしまえば取り返しのつかない貴重(きちょう)な資料なのです。「こういう文書(ぶんしょ)はきっと大切な資料になる」という思いで大切に残してくれた人がいたおかげで、私たちは昔(むかし)のことをくわしく知ることができます。
 
最後の村長、木村八千穂(やちほ)
 
 さて、戸坂村にはじめて村長が誕生(たんじょう)したのは明治22年5月16日のことでした。それぞれの村で村会議員(そんかいぎいん)が選ばれ、そして村長がその中から選(えら)ばれるというしくみが国によって作られてからのことでした。
 明治の世の中になって何もかもが良くなるのではないかと期待(きたい)した人もいたことでしょうが、国もたいへんな時期(じき)で、重い税(ぜい)が課(か)せられたり兵役(へいえき)の義務(ぎむ)ができたり、子どもを学校に行かせなくてはならなかったりと、こんなはずではなかったのにという不満(ふまん)を持つ人も多くいました。政治(せいじ)のしくみが定着(ていちゃく)するまでにはいろいろなもめごとがあったのではないかと思われます。
 
 村会議員13名の中から土井醇一郎(どいじゅんいちろう)が選ばれて初代(しょだい)戸坂村村長になりました。当時は村長を住民(じゅうみん)が選ぶのではなく、村会議員がおたがいの中から選んでいたのです。
 土井醇一郎という人は地主で藍(あい)商人でもあり、納税額(のうぜいがく)が村一番という人でした。ところが土井醇一郎は商売であちこちに出かけることが多く、村を留守(るす)にしがちなので村長をやめたいと申(もう)し出て、辞任(じにん)してしまいました。それで、村の政治の基礎(きそ)は、次の村長、中川豊三(なかがわとよそう)のときにつくられることになりました。
 中川豊三の時から、村長としての仕事(しごと)を専門的(せんもんてき)にとりくんでもらうために、村長には1年間60円の給料(きゅうりょう)をはらうという条例(じょうれい)も定められました。中川豊三は、まだ19才という若さでしたが、前の土井村長のときに収入役(しゅうにゅうやく)をつとめており、その能力(のうりょく)が買われたのではないかと思います。中川豊三は村長として9年間勤めています。
 戦争(せんそう)が終わって1946年からは村長も住民の直接選挙(ちょくせつせんきょ)で選ばれるようになりましたが、それまでは村会議員が村長を選んでいました。また、明治、大正ごろまでは村会議員を選ぶ選挙も男子で土地を持っている人だけにしか選挙権(せんきょけん)が与えられていませんでしたので、戸坂村でも選挙ができたのは半数足(た)らずの人でした。しかし、もっと平等(びょうどう)に選挙権を与えてほしいという運動の結果、戦前の1925年に普通選挙法(ふつうせんきょほう)という法律ができて、25歳以上の男性にのみ選挙権が与えられました。女性に参政権が与えられたのは第2次世界大戦(せかいたいせん)後のことです。
 女性にも参政権が与えられ、はじめての直接選挙(ちょくせつせんきょ)で選ばれたのが14代目の村長、木村八千穂(きむらやちほ)でした。そして、木村村長のときに戸坂は広島市と合ぺいすることになります。(昭和30年・1955年) それで、木村八千穂は戸坂村最後(さいご)の村長になったというわけです。
  
 木村八千穂の家は代々くるめ木神社(じんじゃ)の神官(しんかん)だったので家に昔から伝わる文書などを目にする機会(きかい)も多かったのでしょう。郷土(きょうど)の歴史(れきし)に自然にひかれていったようです。実は、戸坂村の役場に残されていた文書が大切に保管(ほかん)されてきたのも、最後の村長である木村八千穂のはたらきがあったからです。戸坂村が広島市と合ぺいするとき、「役場に残された文書は貴重な資料だ。決して捨(す)ててはならない」と木村八千穂は命じました。歴史に関してはなみなみならぬ関心を持っていた木村八千穂は、自分が一生をかけて調べ、研究した愛(あい)する戸坂の町の歴史を昭和52年、「戸坂町誌(へさかちょうし)」という本にまとめました。
 
 この「戸坂町誌」は戸坂の歴史をあらわした数少ない貴重(きちょう)な資料です。過去(かこ)にこれほど戸坂の町を愛して戸坂のことを調べた方があったおかげで私たちは今はもう忘れ去られているむかしのことをいろいろ知ることができるです。今回、戸坂の歴史のことをまとめるにあたっては、この木村八千穂さんの「戸坂町誌」もおおいに参考(さんこう)にさせていただいています。
 
農業の村、戸坂村
 
 さて、安芸(あき)郡戸坂村といっていたころの戸坂の人々はどんな暮らしぶりだったのでしょう。おもな産業(さんぎょう)からむかしの戸坂のようすを調べてみましょう。 
 
 戸坂は農村(のうそん)でしたから米や麦(むぎ)、野菜(やさい)などを作っていました。米や麦の生産(せいさん)が主でしたが、戸坂の農民はせまい土地を工夫(くふう)して使い、その1反(たん)(300坪=面積約1000平方メートル)当たりの収量(しゅうりょう)は広島県の平均をはるかに超(こ)えるほどでした。今は住宅地に変わった戸坂の村は秋になると黄金の稲穂(いなほ)が一面にゆれ、たいそう美しい田園風景(でんえんふうけい)がひろがっていました。戸坂村から海外に移民(いみん)で行った人が戸坂の自慢話(じまんばなし)として、この田園風景と太田川の美しさ、太田川でとれる鮎(あゆ)のことを語っています。
 
 初代の村長の土井醇一郎は藍(あい)商人でしたが、明治時代には戸坂村では藍作(あいさく)がさかんでした。当時は藍玉(あいだま)職人もたくさんいました。藍というのは、染料(せんりょう)をとる草で、化学染料が普及(ふきゅう)するまではたくさん栽培(さいばい)されていました。

 戸坂村ではこうした工芸作物も作られ、それにつながる産業もいくつか見られました。
他には藍作と同じころに行われた大麻(たいま)の栽培(さいばい)があります。大麻は麻(あさ)織物や漁網(ぎょもう)の原料(げんりょう)になりました。けれども、藍作も大麻の栽培も明治の終わりごろにはすたれていってしまいました。
 藍作や大麻の栽培に代わって戸坂村でさかんになったのは養蚕(ようさん)です。養蚕というのはかいこを飼(か)ってまゆにする仕事です。このまゆから生糸(きいと)を取り出し、絹織物(きぬおりもの)が作られます。かいこのえさはクワの葉(は)なので、そのころはクワの木もたくさん植(う)えられていたのでしょう。養蚕は短期間(たんきかん)での現金収入(げんきんしゅうにゅう)になるので多くの農家が養蚕にはげみました。戸坂村は安芸郡で1,2を争う養蚕の盛(さか)んな村でした。村の農家のうち、約半数の農家が養蚕に取り組んだといわれています。太田川の土手すじには小規模(しょうきぼ)ながら製糸工場(せいしこうじょう)もできました。ここでまゆから生糸を取り出すのです。1個のまゆからずいぶん長い糸がとれるようすに子どもたちはびっくりしました。養蚕のない時期にはい草(ぐさ)から畳表(たたみおもて)を織(お)っていました。それで、戸坂村では原料のい草も栽培されていました。

 けれども、大正から昭和の初期にかけてさかんだったこれらの工芸作物(こうげいさくもつ)の栽培も、昭和のはじめの大恐慌(だいきょうこう)や戦争などの影響(えいきょう)を受け、時代の変化とともにだんだんさびれていくことになります。
 
広島の町への交通
 
 当時は広島の町に行くのはふつうは歩いて行くのがあたりまえでした。太田川の土手ぞいには今はとてもりっぱな自動車の道ができていますが、昔はそんなりっぱな道ではありません。その道をてくてく歩いて町まで行きました。乗り物といえば、広島の町まで舟で片道5〜10銭、バスで片道20銭、汽車で片道16銭ぐらいでしたが、米が1升20銭、1日働いたかせぎが40銭の時代では、そう簡単(かんたん)に乗り物に乗るわけにはいかなかったのでしょう。
 
 広島に歩いて出るのは牛田をまわっていくのと中山峠(なかやまとうげ)を越(こ)えて行く道があります。中山峠はけっこうきつい坂だったらしく、荷車(にぐるま)を押(お)して上がるのは大変くたびれたようです。また、日が暮(く)れると真(ま)っ暗(くら)になり、人家(じんか)もとぎれるので追(お)いはぎがよく現れ、身ぐるみをはがされたという話も伝わっています。夜、キツネに化(ば)かされたとまことしやかにいう人もいました。それで夜はこわいので、牛田をまわる道(新道)を通って戸坂に帰る人が多かったようです。
 
 太田川は、昔は今よりも水かさも多くて、たくさんの舟が行(い)き来(き)していました。材木をいかだに組んで流したりもしていました。北の加計(かけ)の方から広島の町まで舟で荷物(にもつ)を運んだり、人を乗せたりしていました。むかしは川が人や物を運ぶのにたいへんよく利用されていたのです。加計から広島に通う舟に広島の町での買い物をたのむこともできました。これを「トオカイサン」(「遠買いさん」という意味)とよんでいました。トオカイサンが船着(ふなつ)き場(ば)に近づくとほら貝を鳴(な)らして知らせました。
 だいたい朝に川を下って行き、昼から上ってくるというのがきまりでしたが、上りは帆(ほ)をあげて風の力を利用して川をさかのぼりました。なぎで風がないときは船頭(せんどう)さんが土手を綱(つな)で引っ張って上っていきました。舟につないだつなを引いて土手を行く船頭さんを想像してごらんなさい。おもしろいですね。
 この舟は西区の仏護寺(広島別院)の裏(うら)まで通っていました。

 また、広島の親せきにモチや野菜などをことづけたいときや、町での買い物をたのみたいときには矢口から毎日出ていた「マチビン」という大八車で荷物を運ぶ人にたのむこともできました。 

 「マチビン」は大正のはじめのころまであったそうですが、バスや汽車が通るようになって利用されなくなったのでしょう。でも、バスや汽車ができるまではそういうものがとても役に立っていたのです。広島の町に歩いて行くこともできたのですが、それだけの時間のよゆうがなかったり、めんどうなときには「トオカイサン」とか「マチビン」といったものが利用され、またそうした商売も生まれていたわけです。人間の社会っておもしろいですね。そのときにしかないものはやはりそのときに必要(ひつよう)だから生まれているのです。でも、その役目が終わると次のものに取って代わられるのです。
  
 バスに乗って広島の町に出られるようになったのは大正13年(1924)浪花(なにわ)バスが広島の八丁堀と矢口の間にバスを走らせてからです。バスは3台あって、1日5〜6便走っていました。10人乗りで、バスに乗りたいときは道すじに旗(はた)を立てておきました。するとそこにバスはとまって、ブウブウ鳴らして合図(あいず)してくれたということです。広島まで片道20銭ぐらいでした。
 
 芸備線(げいびせん)が開通(かいつう)したのは大正4年(1915)4月28日のことでした。はじめて汽車が通ったときはみんな手をたたいてよろこびました。中山峠にトンネルができ、まだ開通する前にこっそりどんなところか見に行った人もいます。思ったよりこまい穴じゃった、という感想をもらしています。芸備線は芸備鉄道という会社がつくったのですが、はじめのころは広島から次の駅は高陽町(こうようちょう)の矢口(やぐち)駅で、戸坂村には駅がありませんでした。それで、これではいくらなんでも不便だというので、当時の山本佐市村長と十数名の有志が芸備鉄道と何回も話し合ったあげく、土地100坪(つぼ)と建物の工事費600円を村が寄付(きふ)するという条件で戸坂駅が作られることになりました。

  
 戸坂駅ができたものの1日の利用者はだいたい70〜80人ぐらいのものでした。やはり広島まで片道16銭の運賃(うんちん)は多くの人にとっては高く、広島までなら歩いた方が良いというわけでした。芸備鉄道では利用者を増やそうと、村に使用料をはらって、駅の近くの琴ひら神社の滝を中心にした遊園地をつくりました。避暑地(ひしょち)としても人気が出て、たくさんの人がおとずれたということです。
 
 戸坂駅に続いて今の百田団地(ひゃくただんち)の下の方に「石ヶ原駅」がつくられました。けれどもやがてこの石ヶ原駅は使われなくなり、今はもうありません。もし今「石ヶ原駅」が百田団地の下の方にあったら便利ですね。
 
電気 
 
 電気がつくまでは明かりはもっぱらカンテラやランプを使っていました。カンテラは風呂場(ふろば)で使っていましたが、石油を燃(も)やすので真(ま)っ黒(くろ)いけむりがたくさん出ました。
 はじめて戸坂に電灯(でんとう)がついたのは大正5年(1916)のことで、その明るさにみんなびっくりしました。あんまり明るくて夜寝られないという人もいました。今のけいこう灯の明るさを見たら人々は何というでしょうか。
  
 電話がついたのも同じころで、役場についたのが最初だったといいます。そのころは電話がかかると、遠くにいても呼びに来てくれたそうです。電話の数が限られていたので仕方なかったのでしょうが、呼びに行く人も、受話器(じゅわき)の向こうで待つ人も気の長い時代だったのですね。
 
 時間は、電話で聞いたりテレビの時報(じほう)で時計を合わせることはできませんから、比治山(ひじやま)で正午だけ鳴らされる「ドン」の音で合わせたといいます。そのころは比治山での「ドン」の音が戸坂でもよく聞こえたのです。特にくもった日はよく聞こえました。天気の良い日は逆にあまり聞こえなかったそうです。 
 
はじめに
第1章   大むかしの戸坂
第2章   戸坂という地名
第3章   農業の村、戸坂のくらし
第4章   災害とのたたかい
第5章   移民の村、戸坂
第6章   原爆と戸坂
第7章   水源地、戸坂
第8章   広島市戸坂町
おわりに