戸坂の歴史
      
第7章  水源地、戸坂
 
呉への送水
 
 昭和17年(1942)から18年にかけて呉にあった海軍基地では海軍で使う水を太田川からひく計画をたてました。そして、その水源地(すいげんち)として選ばれたのがはるか遠い戸坂の太田川です。今の盲学校のあたりから水をひくように工事が進められました。
 そのために必要な土地はなかば強制的(きょうせいてき)に安い値段で村人から買い上げられました。田3町(約297.5アール)、畑1町歩(ちょうぶ)が当時の土地価格(とちかかく)の相場(そうば)の半値(はんね)かそれ以下の値段で買い取られたのです。
 
 これに対して村人は「軍の用地として田や畑を買い上げられることには文句はもうしませんが、せめて相場の値段で買っていただきたい。また、田畑をうばわれて仕事がなくなる小作人には生活の補償(ほしょう)をしていただきたい」とお願いをしましたが、受け入れてもらえませんでした。

 泣く泣く土地を手放(てばな)さなくてはならなかった人や仕事を失った人など、犠牲(ぎせい)を払いながら、呉に水を送るための施設(しせつ)がつくられていきました。

 戦争が終わった後まもなく土地を買収(ばいしゅう)された人々はみんなで呉市に行き、土地を返してもらいたいとお願いしましたが、これも認められませんでした。

 太田川から取り入れられた水は、中山峠をを300万馬力のモーター3台で1日2万7千トンあげられ、呉市まで28kmを送られていきました。
 
 この水道は呉の海軍がつくったものでしたが、昭和28年(1953)に呉市に売却(ばいきゃく)されました。
 昭和30年にはこの呉市へ向かう送水管(そうすいかん)の途中の町村にも給水を行うようになりました。戸坂、府中、船越(ふなこし)、海田、矢野、天応(てんのう)にも1日1万3千トンを分水するというものです。(昭和61年10月に戸坂浄水場が閉じられるまで分水を受けていました)
 
 昭和37年から太田川東部工業用水を1日30万トン送るための工事が着工され、50億円かけて昭和44年に完成されました。送水トンネル24.9km。山をくりぬき、14.4kmの配管工事(はいかんこうじ)で、戸坂取水口から松笠山(まつかさやま)、下温品浄水場、府中御衣尾(みそのお)浄水場を通りました。キリンビール工場や東洋工業の工業用水として使われましたが、温品、府中、船越、矢野、坂の町の人々の生活用水としても利用されました。
 
 その配管はさらにのびて海底パイプにより、江田島・能美島にも水を送るようになりました。今では蒲刈島(かまがりしま)などへも給水が行われ、戸坂から取り入れた水が遠くまで運ばれて、大勢の人の飲み水として利用されています。
 とはいっても、戸坂から取り入れた水だけがそのように利用されているのではないことに注意してください。
 昭和61年10月31日をもって戸坂浄水場は幕を閉じ、太田川の水を呉市宮原(みやはら)浄水場に送ることになったので、そこに入ってくる水といっしょにいろんなところに送られているからです。
 
 戸坂浄水場が使われなくなったのは、そこから呉に送る送水管が国道31号線に沿って埋(う)められていたので交通量が多くなるにつれて傷(いた)みがはげしくなって事故がよく起こっていたことや盲学校の移転(いてん)先として選ばれたことなどのさまざまな理由がありました。呉市水道局が持っていた太田川の水利権(すいりけん)は3万5千立方メートルでしたが、そのうち1万2千立方メートルは広島市にゆずり、残りの2万3千立方メートルを宮原浄水場に送っているということです。それで、盲学校のところにあった呉市水道局の施設などもとりはらわれました。
  
牛田浄水場への送水
 
 広島市は全国で5番目というぐらい早くから水道が作られた町です。それは明治27年(1894)に日清戦争(にっしんせんそう)が起こり、広島が軍事拠点(ぐんじきょてん)として重要(じゅうよう)な位置を占めるようになったからです。
 牛田で太田川の水を取り入れ、牛田浄水場から広島市内への給水が行われました。

 ところが、広島が軍事的に中心的な役割を果たすようになるとたくさんの人が集まるようになり、一気に人口が増加して、牛田浄水場の能力を超えてしまうおそれが出てきました。
 そこで牛田浄水場では拡張工事(かくちょうこうじ)をくり返しましたが、そのたびに人口が増えてその対応に追われるようになりました。

 広島市の水道局では牛田からの取水だけでは応じきれないと判断し、上流の原からも水を取り入れるようにしました。
このころ工業の発展によって太田川の砂利(じゃり)を取ったりすることが多くなっていました。そのため河床(かわどこ)が変化し、牛田の取水口あたりの水位(すいい)が下がって夏場の渇水期(かっすいき)には満(み)ち潮(しお)で海の水が逆流(ぎゃくりゅう)して水質が悪くなることもあったからです。

 戦時中も人口が増え続ける広島市の給水のために原(はら)取水場からもっとたくさんの水を取り入れるよう工事の計画がたてられました。

 けれども広島に原爆が落とされ、その計画は一時中断しました。

 戦後、近隣(きんりん)の町村の合ぺいによってさらにたくさんの給水が必要になりました。そこで、原取水場ではなく、新たに戸坂に取水場をつくって増え続ける人口に対処しようとしたのです。広島市の取水場は呉の海軍がつくった取水場のとなりにつくられました。
 
 昭和33年(1958)6月8日、戸坂取水場の運転が開始されました。現在、戸坂取水場からは1日に12万2千立方メートルの水が取り入れられています。この水は浅野山のトンネルを通って牛田浄水場まで運ばれ、広島市民の飲み水として役立っています。桜ヶ丘の上の方の墓地(ぼち)に行くと、広島市水道局のトンネルがあります。
 
 今では牛田取水場はなくなっていますが、代わりに高陽町の高瀬堰(たかせぜき)から取り入れられた水が牛田浄水場に送られています。
はじめに
第1章   大むかしの戸坂
第2章   戸坂という地名
第3章   農業の村、戸坂のくらし
第4章   災害とのたたかい
第5章   移民の村、戸坂
第6章   原爆と戸坂
第7章   水源地、戸坂
第8章   広島市戸坂町
おわりに