戸坂の歴史
      
第2章  戸坂という地名
 
 どうして今の場所を「戸坂」というようになったのでしょうか。
 
 昔の人はこんなつくり話めいた話をしてくれました。
『むかしは中山に行くとうげ道はたいへん急な坂で、車を押して行く人はしんどい思いをしていたもんじゃ。それで、坂をのぼるとき、プーッとおなら(へ)が出て、それで「屁(へ)が出た坂=へさか」になったんじゃ』
 これは昭和51年に戸坂公民館(へさかこうみんかん)が発行(はっこう)した「戸坂のむかし」という冊子(さっし)の中に書かれている話ですが、おじいさんから孫(まご)におもしろおかしく語られたのでしょう。
 実際(じっさい)はどうなのでしょうか。
 
戸坂村
 
 「戸坂」という地名は1289年の文書にすでに出てきます。(安芸国府(こくふ)の役人だった田所(たどころ)氏の持っている田畑が戸坂村にあった、と書かれています) また、1246年の文書にも「戸坂」の地名が見えるので、そのころから「戸坂村」はあったと考えてよさそうです。(「戸坂村史」広島市83ページ) 文化12年(1815)の「文化度国郡志」という文書には「戸坂はずっと昔から名前は変わっていない」とも書かれています。
 
戸坂氏
 
 室町時代にはこのあたりに「戸坂」を名乗(なの)る武士がいました。
 鎌倉時代に源頼朝(みなもとのよりとも)は日本全国に守護(しゅご)を置きましたが、安芸国(あきのくに)(広島県)には甲斐国(かいのくに)(山梨県)の武田氏を守護として任命(にんめい)しました。おそらく戸坂氏は武田氏とつながりのある家来として武田氏といっしょに広島まで来たのではないかと考えられます。(「戸坂町誌」196ページ)そして、武田氏が武田山に銀山城(かなやまじょう)(金山城)を築いたのに対して、川をはさんで向かい側になる戸坂の茶磨山(ちゃすりやま)(牛田山)に戸坂城を築いて守りをかためたのでしょう。その武士が「戸坂」という名の武士でした。
 
 安芸国の守護として広島を治めていた武田氏も室町幕府の力がおとろえ、世の中が乱れてくるにつれて、毛利氏や吉川氏、小早川氏という地方の武士に勢力をおびやかされるようになりました。厳島神社の神主(かんぬし)家の厳島氏も西部の方面で力をのばしてきました。これに中央で力を持っていた細川氏や大内氏の争いもからんで、広島も戦乱(せんらん)の時代に突入(とつにゅう)することになりました。
 
 厳島氏に味方(みかた)した大内氏と対する武田氏との間で戦(いくさ)が始まったとき、武田氏の家来だった戸坂信成は武田国信の命を受けて銀山城の西、己斐城の守りにつきました。けれども、当時の文書によると『言語道断(ごんごどうだん)の失敗』があって、戸坂信成は大内氏の家来、右田弘篤に討(う)たれて死んでしまいました。(1457) それで、残された武将(ぶしょう)たちは戸坂信成の遺児(いじ)を連れて大内氏のもとに降伏(こうふく)したのです。「言語道断」の失敗がどんな失敗かはわかりませんが、そういう失敗があったので、武田氏のもとに逃げ帰ることもできなかったと考えられています。
 後日談(ごじつだん)ですが、このときの戸坂信成の遺児(いじ)は山口県の宇部市(うべし)東岐波(ひがしきわ)で無事成長し、この地に「部坂」(へさか)家を興(おこ)しています。「戸」ではなく「部」の字を使ったところには何か事情があったのでしょう。部坂氏は東岐波村で村役人をつとめ、数々の功績(こうせき)を残しました。今でも子孫(しそん)にあたる方がご健在(けんざい)だということです。
 
 この時代、細川氏に代わって力を持ってきた山陰(さんいん)の尼子(あまこ)氏と大内氏との間で勢力争(せいりょくあらそ)いが始まり、戸坂もはげしい戦闘(せんとう)の場となりました。1527年には大内氏は戸坂や今の高陽町の玖村まで攻め込んできました。尼子氏と組んだ武田勢とは松笠山で合戦(かっせん)となりました。松笠山の観音寺は戸坂城主、戸坂入道道海(へさかにゅうどうどうかい)の隠(かく)れ城だったといわれています。(「松笠観音由来記」) このときは、病気で大内義興(おおうちよしおき)が死んだために一時大内方は攻撃(こうげき)を中断しました。
 
 1539年には大内義興の子、大内義隆(おおうちよしたか)が毛利元就(もうりもとなり)を味方につけて尼子・武田勢におそいかかりました。毛利氏は尼子氏の力をおそれて一時尼子氏側についていましたが、このころには大内氏の方が優勢(ゆうせい)と見て大内氏に味方するようになっています。大内・毛利勢は武田方の佐東川内水軍(さとうかわうちすいぐん)ともはげしい戦闘をくりひろげましたが、戸坂の地もその戦場となりました。戸坂氏は武田氏の家来として大内・毛利勢に立ち向かっていったと思われます。

 やがて、銀山城も毛利元就にはげしく攻められ、あやうくなります。そのころ、戸坂入道道海は、銀山城の最後の城主、武田光和の子、竹若丸(一説には光和の弟、伴下野守の子、重信の遺児(いじ)ともされる)を連れて太田川を渡り、対岸の安国寺(あんこくじ)(今の不動院(ふどういん))に逃れたと伝えられています。この竹若丸が後の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)といわれています(「安国寺恵瓊」河合正治・著)が、確かな証拠(しょうこ)はありません。また、もし安国寺恵慶が武田氏の遺児であれば、自分を滅(ほろ)ぼした毛利氏のために働き、毛利氏と命運(めいうん)をともにすることが不自然ということで、疑問(ぎもん)も投げかけられています。(「広島市の文化財第23集 不動院」3ページ)
 
 天文8年に大内義隆による武田氏への攻撃がはげしくなり、翌年(よくねん)(1540年)、戸坂城は岩鼻(尾長山)から攻め上った大内義隆の軍勢によってついに落城してしまいます。そして、城主の戸坂入道道海は専教寺の裏(うら)のかしの木の下で腹(はら)を切って死んだと伝えられています。戸坂入道道海の墓(はか)とされるものが茶磨(ちゃすり)山頂より南に少し下ったところにあるということですが、今は藪(やぶ)におおわれていて見つけにくくなっています。
 
 ところで、このころの城は山城(やましろ)で、広島城のような天守閣(てんしゅかく)もあるようなりっぱなお城ではありません。お城というより、「とりで」といった方が当たっているかも知れません。はじめのころのものは石を使うこともなく、土を盛(も)り上げた土塁(どるい)で防衛(ぼうえい)していたところもあります。戸坂城がどんな城だったのかははっきりと分かりませんが、調査(ちょうさ)によると、郭(くるわ)(曲輪)が最高所とその北東から東にかけて囲んでいるとあります。郭というのは山の峰(みね)や尾根(おね)などをけずって平らにした場所で、陣(じん)をかまえるところです。茶磨山(ちゃすりやま)の山頂は今、とても見晴らしの良い平坦(へいたん)な場所になっていますから、ここに戸坂氏のとりでがあったのでしょう。
 また、このころの城には郭のまわりに土を盛ったり、まわりを掘(ほ)って空堀(からぼり)をつくったり、尾根を断(た)ち切る切り堀が見られます。戸坂城には空堀や切り堀は見られませんが、城北学園のグランド造成地(ぞうせいち)にあった出城には掘り割(わ)りがあったそうです。
 山城は生活の便が悪いところですから、ふだんはふもとで生活して、いざというときに城にこもったと考えられます。おそらく戸坂城もそのような城だったのではないでしょうか。
 
 さて、実は戸坂氏を打ち負かしたのは大内勢なのか、武田勢なのかがはっきりしていないのです。というのは武田氏が滅ぼされたあと、戸坂氏は大内氏や毛利氏の家来になっているからです。
 
 このころは家来(けらい)が主人をたおしたり、味方がうらぎって敵方(てきがた)についたりすることもよくありましたので、いつしか戸坂氏も武田氏から離(はな)れて大内氏につくようになったのかもしれません。それで、武田勢から攻められたのかもしれません。また、大内勢に敗れて降伏し、大内氏の家来になったのかもしれません。

 いずれにせよ、その後も武田氏と大内氏の戦いは続きますが、1541年、ついに毛利元就によって銀山城は落とされ、大内氏が勝利を得ます。                              
 武田氏が敗れた後、大内義隆に従った戸坂氏は温科(温品)に領地(りょうち)を与えられたということです。     

 このころの話として、毛利元就が武田氏を攻めるとき、千のわらじにろうそくをつけて川に流し、逃げたように見せかけて武田氏の銀山城を油断(ゆだん)させ、城の裏山から攻(せ)めたという言い伝えが残っています。そこから「千足(せんぞく)」という地名が生まれたというのですが本当かどうかはわかりません。高陽町の小田(おだ)村から歩いて千歩ぐらいのところだから「千足」という、という人もいれば(「戸坂のむかし」20ページ)、毛利と尼子の戦いで戦死者(せんししゃ)のわらじが数千流れてきたので「千足」という、とか太田川の堤防(ていぼう)を改修(かいしゅう)するために農民が千束の稲束(いなたば)を出すよう命じられたので「千足」となったという話(「戸坂町誌」12ページ)なども伝わっています。また、一説には、戦(いくさ)で太田川を渡るとき、千足のわらじを献上(けんじょう)したので「千足」となったとも語られています。(「戸坂町誌」41ページ)さらには、本当は「千束」と書いていたのが「千足」となったもので、この地は千束の稲が収穫(しゅうかく)できるほど実りの豊(ゆた)かな地だという意味で名付(なづ)けられたという説もあります。(「ふるさとの今昔」東野公民館、15ページ)
 
戸坂城山
 
 さて、ここまで来ると、なぜ地域の名前が「戸坂城山町」といい、学校の名前が「戸坂城山小学校」なのか分かったでしょう。牛田山(西山)の頂上に昔お城があって、そのことで「城山」というようになったのです。今、地図では牛田山と書かれている山を戸坂の人は「西山」とよぶことがあります。これは谷をはさんで向かい側の松笠山を「東山」とよぶのと対(つい)をなした呼び方です。戸坂城があった牛田山は「茶磨山(ちゃすりやま)」ともいい、「茶臼城山(ちゃうすしろやま)」ということもあります。昔の土地の人は「やまづみさん」とよんでいました。戸坂氏が「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」を守り神として神社をたてたので、「おおやまづみ」という呼び名から「やまづみさん」になったのです。
 
 戸坂城山小学校のおとなりの「城北学園」は戸坂城の北にあるので「城北」というわけではないようです。「城北学園」の城は「戸坂城」ではなく「広島城」をさしているようです。むかしは城北学園は「鯉城学園」という名前でしたが、学園を改革して再出発しようという気持ちをこめて昭和42年に「鯉城(広島城)の北にある学園」という意味で「城北学園」と校名変更がされたそうです。(「広島城北学園創立40周年記念誌」13ページ)
 戸坂城山小学校は城北学園のグランドだった場所を広島市が買いとって建てた学校です。ですから昔は城北学園の生徒がこのグランドで元気に運動していたのです。なお、城北学園には以前は小学校もあって、幼稚園・小学校・中学校・高等学校と全部が備わっている学校でした。昭和39年(1964)に小学校を併設して以来、平成4年(1992)に最後の6年生を送り出して閉校(へいこう)するまで、28年間で418名の児童がこの学校で学んだということです。
 
 
 
地名
 
 なお、他の地名のいわれについてはこんな話が伝わっています。
 
○百田(ひゃくた)・・・昔、田んぼが百あった。だんだんになっておった。(「戸坂のむかし」19ページ)
○東浄(とうじょう)・・・昔、そのあたりを「東」という字と「浄玄寺」という字でよんでいたので、2つが合わさって「東浄」となった。(「戸坂のむかし」23ページ)
○数甲(かずこう)・・・江戸時代にはすでに「かすこう」と書かれたものがあった。数の甲(かぶと)で武器に関係のある人たちが住んでいたのではないか。(「戸坂町誌」14ページ)
○出江(いずえ)・・・昔、茶磨山(西山)の中腹に「じゅんさい池」というのがあって、そこから谷川が流れていたので「出江」とよぶようになった。「じゅんさい池」は山くずれでうまってしまった。(「戸坂町誌」16ページ)
○流谷(ながれだに)・・・昔、柳迫の奥谷から山津波があり、この谷を流失したので流谷という。(「戸坂町誌」15ページ)
○桜ヶ丘・・昭和39年10月、広島市がこの土地に宅地造成をおこない、「桜ヶ丘」と命名した。この丘に桜御前神社(さくらごぜんじんじゃ)があるので、その名にあやかって「桜」の字をいただいた。(「戸坂町誌」13ページ)
 
その後の戸坂村を治めた人々
 
 しばらく大内義隆の時代が続き、戸坂は大内義隆の支配下(しはいか)にありました。天文11年(1542)には大内義隆がくるめ木神社に神料を寄付したいう記録が残っています。また、戸坂氏は大内義隆から毛利元就に与えられるはずだった温科(温品)を与えられたという記録もありますので、大内氏の家臣としても立派に役目を果たしていたと思われます。
 
 やがて大内義隆は家老の陶晴賢に討たれてしまいます。(1551)そのとき大内氏の家臣だった毛利元就は陶晴賢に協力した功績が認められて戸坂などたくさんの領地を与えられました。戸坂氏も毛利元就の家臣に位置づけられました。
 その後、毛利元就は厳島の合戦(1555)で陶氏を打ち破って中国地方随一の大名になっていくわけですが、戸坂はその毛利氏の支配の及(およ)ぶ所となったわけです。毛利元就もくるめ木神社に神田(しんでん)や文銭を寄進(きしん)しています。 
 
 ところで、毛利氏が大きな力を得た背景には武田氏の家来だった川内水軍を配下に従えて広島湾一帯に進出したからだという説があります。この川内水軍は戦いをするだけでなく、川を使って品物を運んだり商売している人もたくさんいたので、そういう経済的なことも力を得た理由となったのではないかというわけです。戸坂氏も川内水軍とつながりがあったようです。
 
 太田川の西側はそれまでに交通の要として市が栄えていましたが、このころには太田川の東側も経済的に発展してきていたと考えられます。毛利氏が吉田の郡山城を修築するとき、あるいは新しく広島城を築くときに「戸坂米」を使うようにと書いた文書が残されていますが、これは、戸坂でとれる米を使うようにというだけでなく、米を集めておく場所として戸坂が使われていたということなのかもしれません。
 
 関ヶ原(せきがはら)の戦い(1600)で豊臣方についた毛利氏は領地を減らされ、防長2州(今の山口県)に移されてしまいました。毛利氏に代わって広島藩の領主として徳川方についた福島正則(ふくしままさのり)が尾張(おわり)の国(今の愛知県)からやってきました。戸坂村は福島正則の支配を受けることになりました。

 福島正則は厳(きび)しい検地(けんち)や刀狩(かたなが)りを行い、土地の人々と毛利氏との古いつながりを断ち切ろうとしました。慶長(けいちょう)6年(1601)の検地帳(けんちちょう)が残っているので、そのころの戸坂の米の収穫量(しゅうかくりょう)を見ることができます。戸坂村の石高(こくだか)は1081石(こく)5斗(と)2升(しょう)と記録されていますが、これは39ヵ村の中で大きい方から数えて7番目の石高(こくだか)でした。石高というのは、そこで収穫できる米の量で土地の生産力(せいさんりょく)を表したものです。
 
 もともとは豊臣秀吉(とよとみひでよし)の家来であった福島正則は徳川家にしてみれば心を許すことのできない大名でした。それで、広島城を無断(むだん)で修築(しゅうちく)したことを口実(こうじつ)にその罪(つみ)をとがめ、福島正則の領地(りょうち)を取り上げて広島から信濃(しなの)の国、川中島に移してしまいました。(これを改易(かいえき)といいます) 石高も49万石から4万5千石にまで減らされたのです。やがて福島正則は信濃の国で亡くなりますが、幕府(ばくふ)の使者がやってくる前に火葬(かそう)にしたとして、とうとう福島家は3千石の旗本(はたもと)にまで落とされてしまいます。
 
 さて、福島正則に代わって今度は豊臣氏の家来だったけれども徳川氏と主従(しゅじゅう)の関係を結んだ浅野長晟(あさのながあきら)が紀伊(きい)の国(今の和歌山県)から広島藩の領主となってやってきました。(1619年) 浅野氏が広島城を福島氏から開(あ)け渡(わた)されたとき、あまりにも城の中がきれいに掃除(そうじ)され、道具などもきちんとととのえられてひきつがれたのに感心したそうです。福島正則の家来の気質を物語る話です。
 
 この浅野氏が明治になるまでずっと広島藩主として治めました。浅野氏の支配のもと、戸坂村は家老(かろう)の上田氏の給知村(きゅうちむら)(=武士の支配(しはい)が認められた村)になりましたので、藩の直接の支配ではなく上田氏から送られた代官(だいかん)によって治められていました。代官の下では農民の中から庄屋(しょうや)などの村役人が選ばれて年貢(ねんぐ)を納めたりすることなどいろいろなとりまとめをしました。
 米の収穫(しゅうかく)に対してどのぐらいの割合(わりあい)で年貢を納めるかは、戸坂村の直接の支配者である上田氏が決定しました。元和5年(1619)ごろは56.7%だったものが文化11年(1814)ごろには59.5%ぐらいに率(りつ)が上げられています。収穫された米の半分以上は年貢として納めなければならなかったのです。一方、凶作(きょうさく)の年には11.552%というように低い率になっています。
 
札場
 村の中心に札場(ふだば)という場所がありました。札場という名前が示すとおり、何か村人に知らせたいことがあるときには、そこに「お触(ふ)れ書(が)き」が掲示(けいじ)されました。そこには大きな石が置かれていて、背中にしょった荷物(「負(お)いこ」といいます)を石の上に降ろして休んだりするのにも使われていました。けれども、何か悪いことをした人はその石の上に座(すわ)らされてさらし者にするなどの刑罰(けいばつ)を負わせる場所でもありました。たとえば、イモどろぼうはイモを背負(せお)わされて、その札場石(ふだばいし)にしばりつけられたということです。
 この札場石は山根(やまね)石橋の下の三叉路(さんさろ)に置かれていて、村人から「札場の石」として愛されていましたが、昭和30年に広島市と合ぺいするときに戸坂公民館の道路わきの今の場所に移されました。今でも公民館に行くと見ることができます。
 
当時の戸坂村のようす
 
 戸坂村の検地(けんち)での石高は1619年、1712年、1825年といずれの時代も先の1081石5斗2升から変わっていません。他の村々の石高は増減(ぞうげん)しているのに、石高が変わっていないのは戸坂村だけなのです。これは、太田川河口(かこう)のデルタ地帯に新田(しんでん)が開発(かいはつ)されて多くの村の石高が増えていったのに、戸坂のあたりではそういった新田の開発がなされなかったのかもしれません。
 
 当時の記録をひもとくと、田と畑を比較(ひかく)するとおよそ7:3〜8:2の割合で田の方が面積が広かったことが分かります。戸坂村に暮(く)らしていたのは1300人台でほとんどは農民でした。また広島城下の中心部まで近かったので駕籠(かご)かきなどの仕事をする人もいました。
 
 当時の戸坂は稲作(いなさく)を中心とした農村でしたが、稲作以外に麦、粟(あわ)、きび、大豆(だいず)、小豆(あずき)、麻(あさ)、木綿(もめん)、大根、ごぼう、とうきび、たばこなどを栽培していました。他の場所ではどこでも栽培されていた茶、こうぞ、うるし、クワ(「四木=しぼく」とよばれる四種類の木)は栽培されていなかったようです。
 特に、戸坂は広島城下に近かったので、城下町で消費(しょうひ)される野菜がつくられました。近隣(きんりん)の農村ではいろいろな野菜がそれぞれ特産(とくさん)として栽培されていますが、戸坂はごぼうと大根が特産品となっています。ごぼうは文化2年(1805)、藩主(はんしゅ)に献上(けんじょう)されるほどでした。これらの野菜を農家の人はてんびん棒(ぼう)にかついで広島城下(ひろしまじょうか)の町へ売りに行ったりしていたようです。
 当時の人々は明かりとして菜種油(なたねあぶら)を用いてきましたが、19世紀の初めのころは戸坂で菜種(なたね)がたくさん栽培されていたことが分かっています。戸坂で栽培された菜種は舟で広島の町に運ばれ、菜種油となって城下の人々の明かりに使われたことでしょう。
 
 戸坂の村の山や野原は、藩の所有する「御建山(おたてやま)」や「御留山(おとめやま)」、村人が共同で利用する「野山(のざん)」「入会山(いりあいやま)」、村人個人が所有する「腰林(こしばやし)」とに分けられますが、「御建山」として茶磨山(ちゃすりやま)・長尾山・船ヶ谷・松笠山、「御留山」として神子ヶ迫山・合屋山、野山として東山・西山などの名前が挙(あ)がっています。
 山は材木をとるだけでなく、農民にとっては水田の刈敷(かりしき)に利用する肥草(こえぐさ)をとったり炭やまきをとったりする大切な所でもありました。山の大部分は上田氏が所有していましたし、入会山(いりあいやま)など共同の山もありましたので、農民たちはルールを守って、山を大切に利用してきました。
 明治のころの話ですが、山の管理(かんり)をする「山番人(やまばんにん)」にはそうとうな権力(けんりょく)が与えられていて、争いごとをさばいたりしたということです。いわば、名誉(めいよ)のある仕事なので、山番人になるとお祝いをしたり、交代するときにはお酒を買ったといわれています。そういうような管理する人を決めてみんなで山を大切にしたのだと思います。今でも共有林として戸坂村には山や林が残されていますが、自然の安らぎや環境保全(かんきょうほぜん)など多くのものを与えてくれている山をこれからも大切にしていきたいものです。
 なお、昭和30年の広島市との合ぺいの時に西山を半分売って100万円をつくり、道路や土地開発(とちかいはつ)に使われたという話が伝えられています。
 
 広島城ができるまでは山陽道は府中町から中山峠を越えて戸坂を通っていましたが、広島城ができ、山陽道が城下町を通るようになってからは、戸坂を通る昔の山陽道はさびれてしまいました。そして、広島城下から北の高田郡三田村に通じる道(東筋(ひがしすじ)往還道(おうかんどう))の方が主要道となってしまいました。
 
 戸坂村内の橋は13あり、すべて石橋だったそうです。これは付近の村の橋がほとんど土橋や丸太橋だったのに比べると、珍しいといえます。ただし、一番長い橋でも3.8m(門田石橋)ぐらいで、たいていは1.2m程度のものでした。門田石橋は目立つ場所だったらしく、近隣(きんりん)のいろんな場所に行くときの距離を表す起点とされていました。
 たとえば、祇園(ぎおん)町へは12町(約1.3km)、海田市(かいたいち)へは2里(約8km)、可部へは2里半、廿日市(はつかいち)へは5里半、広島城下の中心地へは1里半と記されています。
 戸坂村の西側を流れる太田川は昔から舟で人や物を運ぶのに大変良く利用されていました。このころ戸坂村には16そうの川船があったということです。
 
はじめに
第1章   大むかしの戸坂
第2章   戸坂という地名
第3章   農業の村、戸坂のくらし
第4章   災害とのたたかい
第5章   移民の村、戸坂
第6章   原爆と戸坂
第7章   水源地、戸坂
第8章   広島市戸坂町
おわりに