戸坂の歴史
      
第6章  原爆と戸坂
 
 第二次世界大戦で日本軍のはた色が悪くなり、アメリカ軍による本土(ほんど)空しゅうも始まると、広島の中心部から戸坂村に疎開(そかい)してくる人が多くなりました。それで人口も増え、また、もしものためにと備蓄用の食べ物なども運びこまれるようになりました。

 それぞれの家では防空(ぼうくう)ごうをほること以外に特別なことはしませんでしたが、戸坂が空しゅうにあうことはありませんでした。

 当時戸坂には戸坂小学校の建物に軍の病院などの施設(しせつ)がありました。(広島第1陸軍病院戸坂分院) 空しゅうなどでけがをした軍人は、まず戸坂の病院で救急処置(しょち)を受けて可部や亀山、大林の第1予備(よび)病院に運ばれる計画でした。また、戸坂駅の裏山には本土決戦に備えた野戦病院(やせんびょういん)の試作として5棟の掘っ立て小屋式の応急病棟(おうきゅうびょうとう)が作られていました。

 これらの病院は広島に原爆が落とされたとき、傷ついた人々を手当をするのでおおわらわになりました。
 
原子爆弾
 
 昭和20年(1945)8月6日、早朝6時、戸坂村では国民義勇隊(ぎゆうたい)が訓練をしていました。全部で100名近い人たちが本土決戦に備えて、竹やりや炊事用具(すいじようぐ)などを持って1時間ばかり行進をしていました。
 この訓練のために広島市内に行く予定をずらした人も多く、それで命が助かった人もいます。
 8時15分、北の方から飛行機が3機白い尾を引いて頭の上近くまで来た後、市内に向かい、原爆を投下しました。
 爆風(ばくふう)のため、家々のふすまがこわれ、ガラスがわれ、天井(てんじょう)がふきとびましたが、爆心地(ばくしんち)から6キロもはなれていたので、火災などは起きませんでした。
 
 10時ごろから被爆した人が野戦病院(やせんびょういん)のある戸坂国民学校をめざしてぞくぞく集まってきました。ひどいやけどを負い、頭の髪の毛はちぢれ、皮膚(ひふ)がたれ下がって、まるで人間とは思えないありさまでした。はじめてこの人たちを見た戸坂村の人はびっくりしました。人々は水をください、水をくださいといって水をほしがり、やがてばたばたと死んでいきました。
 
 軍医(ぐんい)の指示で半鐘(はんしょう)が打ち鳴(な)らされ、村人が集められました。みんなはけが人、病人の手当てにつとめました。国防婦人会(こくぼうふじんかい)の女性は軍が持っていた米を使って大きなかまでたきだしをおこないました。家々から集めた食用のごま油をやけどの傷にぬってあげたりもしました。警防団(けいぼうだん)の男性たちは青竹で作った担架(たんか)にのせて死体を近くのうら山に運んで焼いたといいます。このときに村のワラをすべて使い、まわりの竹やぶの竹や山の木はかたっぱしから切って死体を燃やすのに使ったそうです。そうやって死体を焼いてもあまりにたくさんの死体なので十分焼き切れなかったのです。
 
 戸坂分院にやってきた負傷者は、太田川沿いの県道筋から約6000人、東練兵場(ひがしれんぺいじょう)や尾長・矢賀から中山峠を越えて約3500人、大芝(おおしば)や長束(ながつか)方面から太田川を渡って来たのが約1500人、市内から太田川を舟で運ばれて来た約2000人と、合わせておよそ1万3000人ぐらいだといわれています。そして後に汽車で各地に運ばれて行った約6500人と少し良くなって病院に来なくなった約2000人を除(のぞ)く約4500人が治療(ちりょう)を受けていました。このうち死んだ人は21%の1300人だといわれています。学校に入りきれない負傷(ふしょう)した軍人たちは、それぞれの家で3〜8人ぐらい割り当てられてめんどうを見ました。
 
 それぞれの家では、広島の町からにげてきた親せきの人や知った人もいましたから、それはそれはたいへんでした。食料や薬も満足にないなかで、それぞれの家ができうる限りの手助けをしました。このころ子どもだった人は70才ぐらいになっておられると思います。まだよくおぼえておいでの方もいらっしゃるでしょうから、ぜひ、いろいろ話を聞いてみてください。
 
 手当てとしては、水の代わりに井戸で冷やしたおも湯をあげたり、油の代わりにじゃがいもやきゅうりのしるをやけどにぬったりしました。昼間ははえが来ないように「かや」をつり、夜は小さなろうそくのもとで親身(しんみ)になってめんどうをみました。苦しんでいる人をいっしょうけんめい世話をした戸坂の村人の話はあまりとりあげられることはありませんが、戸坂のほこりといってもいいことだと思います。
 
 戸坂の人の中には子どもを広島の町に行かせていた人も多く、自分の子どもが原爆のぎせいになった方もたくさんいらっしゃいます。
 
 戸坂まで逃げてきて原爆で亡くなられた方は約600人ぐらいだったそうですが、その方々をほうむったあとに供養塔を建てました。これは「原爆供養塔(げんばくくようとう)」として、今も長尾山桜が丘墓地(ぼち)にあります。
  
原爆のあと
 
 広島は焼け野原となり、戸坂の村ではそれぞれの親せきなどが頼(たよ)ってやってきたために村内の世帯数(せたいすう)は原爆以前のほぼ2倍にあたる730世帯となりました。やがて疎開(そかい)してきた人も元の家に帰ったりしましたが、最終的には戸坂の人口は戦前にくらべて約500人程度増えたといわれています。ますます生活は苦しくなり、やがて8月15日の終戦をむかえます。
 
 その後も戸坂は広島のベッドタウンとしてどんどん増え続けていくことになります。戸坂の人口が急に増えていくのは昭和40年ごろからで、昭和50年ごろになってやっと急激な増加がおさまりだします。
 戸坂は純農村(じゅんのうそん)から、広島市内へ通勤(つうきん)する兼業農村(けんぎょうのうそん)に変わり、やがて住宅地化が進みます。住宅地化が進んだのは昭和30年ごろからですが、ちょうど昭和30年に戸坂村が広島市と合併(がっぺい)して広島市となったこともその要因(よういん)にあげられています。
 
はじめに
第1章   大むかしの戸坂
第2章   戸坂という地名
第3章   農業の村、戸坂のくらし
第4章   災害とのたたかい
第5章   移民の村、戸坂
第6章   原爆と戸坂
第7章   水源地、戸坂
第8章   広島市戸坂町
おわりに