戸坂の歴史
      
第8章  広島市戸坂町
広島市との合ぺい
 
 広島市との合ぺいが決まるまでにはいろんな合ぺいの話がもちあがりました。昭和28年(1953)に町村合ぺい促進法(そくしんほう)が制定されて町村合ぺいの動きもさかんになり、府中・中山・温品・戸坂の1町3村合ぺいの話や中山・温品・戸坂の3村合ぺいの話も出されました。また、祇園・古市・伴(とも)・安(やす)・口田・戸坂の2町4村で「祇園市(ぎおんし)」を作ろうという動きもありました。
 そこで、戸坂では中山・温品との「3村合ぺい案」、「祇園市案」、「広島市との合ぺい案」のどれがよいか投票(とうひょう)が行われました。けれどもこの投票も第1回目は「広島市との合ぺい案」が一番多かったのに、異議(いぎ)をとなえる人がいてやり直しの投票をおこない、今度は「祇園市案」が一番多かったのですが、やはり問題を投げかける人がいて、結局3回目の投票の結果、「広島市との合ぺい案」に決まったのです。そのときは、「広島市との合ぺい案」が51.2%、「祇園市案」が48.3%だったといいますから、まさに議論がまっぷたつに割(わ)れていてすんなりとは決まらなかったのでしょう。
 昭和30年4月10日、安芸郡戸坂村は広島市戸坂町と名前が変わりました。
 
 広島市に入った戸坂は広島市のベッドタウンとして急に人口が増えることになりました。広島市に近く、市内の通勤にたいへん便利が良かったので、戸坂に家を建てる人もたくさんいました。戸坂の山や谷が切り開かれ、団地がつくられました。広島市も旧市内の軍用地(ぐんようち)のあと(基町、江波など)に市営住宅をつくって、どんどん増える人口に対応してきましたが、それでも足りなくなって、新しく合ぺいした戸坂に目をつけたのです。

 戸坂には昭和32年、合ぺいから2年後にくるめ木1丁目に建てられた中島住宅に始まり、千足や川根に市営住宅が建てられるようになりました。そして、昭和37年に桜が丘団地(17万平方メートル)、昭和42年に百田団地(13万平方メートル)、昭和43年に東浄団地(33万平方メートル)と、あいついで大規模な団地の造成が着工されました。
 
 昭和40年から昭和50年の間に人口が急激にふくらんできましたが、やがて落ち着いてきました。昭和60年の国勢調査によると、戸坂の人口は24945人となっています。
 平成16年12月の統計では24339人という数が出ていますので、そんなに変化はないと考えられます。なお、急激な人口の増加によって小学校の児童数も急激にふくらみ、戸坂小学校も一時児童数が二千人を越すような状態となって、戸坂新町小学校(戸坂城山小学校)がつくられました。(昭和49年) 
 また、戸坂新町小学校も人数が増えたために東浄小学校がつくられ、戸坂新町小学校という校名から戸坂城山小学校という名前に改められました。(昭和54年)

  なお、中学校は牛田中学校から分かれて昭和47年に戸坂中学校がたん生しました。

東区戸坂
 
 さて、広島市は近くのいろいろな町村との合ぺいをくりかえし、とても大きな市となりました。そこで、広島市は昭和55年(1980)行政上でも独自にいろいろなことができる「政令指定都市(せいれいしていとし)」となって、7つの区役所(くやくしょ)をオープンさせました。政令指定都市になったのは、全国で10番目でした。
 
 戸坂は東区に入り、この日から住所も「広島市東区戸坂」となって今日に至(いた)っています。
 
 戸坂村が広島市と合ぺいした時はそれまでの戸坂村役場が戸坂出張所となっていましたが、東区となってからは「戸坂連絡所」という名前で今の戸坂公民館のところに移されました。

 昭和59年には市民生活、文化の向上をはかり、社会福祉(しゃかいふくし)の増進(ぞうしん)を目的とする「戸坂福祉センター」が建てられました。

 やがて、祇園新道、アストラムラインの建設にともなって、その予定地にあった盲学校(もうがっこう)が戸坂浄水場(へさかじょうすいじょう)のあと地に移転(いてん)してきました。
 
はじめに
第1章   大むかしの戸坂
第2章   戸坂という地名
第3章   農業の村、戸坂のくらし
第4章   災害とのたたかい
第5章   移民の村、戸坂
第6章   原爆と戸坂
第7章   水源地、戸坂
第8章   広島市戸坂町
おわりに