戸坂の歴史
      
第5章  移民(いみん)の村、戸坂
 
 戸坂は農村(のうそん)でしたが、広い田畑を持っている農家(のうか)はわずかで、農家一人当たりにすると耕地面積(こうちめんせき)はたいへんせまく、決して豊かな村というわけではありませんでした。一方、太田川を中心にしての商品の行き交いを目にすることも多く、経済の動きにも敏感(びんかん)に反応(はんのう)して海外でひとはたあげようと考える人もではじめました。
 景気(けいき)が悪くなり、農業だけでは暮(く)らしていけなくなった人や海外での農業経営(のうぎょうけいえい)に夢(ゆめ)を持つ人は海外への移民(いみん)を考えるようになりました。戸坂は海外移民の多い村としても有名でした。
 
ハワイへの移民
 
 戸坂村で海外への移民が始まったのは、明治18年(1885)のことです。ハワイ王国はさとうきびの産地(さんち)として有名でしたが、労働力(ろうどうりょく)が足(た)りないために外国人の移民を受け入れて、さとうきびの生産に力を入れていました。日本政府はそこに3年けい約で働く人を移民として送りこんだのです。
 はじめのころはハワイまで行く費用(ひよう)などはやとい主がはらってくれましたが、後には自己負担(じこふたん)となりました。それでも移民する人は後を絶(た)ちませんでした。
 
 明治18年の最初の移民のときは戸坂から5人(うち、女性2人)がハワイに渡(わた)っています。広島に集められて宇品(うじな)港から船で横浜に行き、そこからハワイに渡りました。
 この人たちはどんな思いでふるさとの戸坂をあとにしたのでしょうか。今でこそ外国のようすなどテレビで知ることもできますが、当時は外国に行った人も少なく、見知らぬ土地へ行くわけですからきっと不安も大きかったことでしょう。
 
 政府のあっせんで行われたハワイへの移民は明治27年まで26回あり、戸坂からは全部で151人(うち、女性34人)が渡りました。移民の96%は広島・山口・熊本・福岡県の出身者でした。またその中でも広島県は全体の38.2%をしめていました。広島県はだいたい移民の多い県なのです。
 それは、広島県令(けんれい)の千田貞暁(せんださだあき)が宇品港を開いたために漁(りょう)ができなくなった漁民(ぎょみん)をすくおうと、ハワイ移民の募集(ぼしゅう)の話があったとき積極的に応じたということがあります。そうした県の動きと海外での高い賃金(ちんぎん)に夢を抱いた若者(わかもの)の望みとがぴったり重なって広島県は移民の多い県になったのではないかと思います。
 また、移民に行くと徴兵(ちょうへい)にいかなくてもすむということもありましたので、徴兵からのがれるために海外に渡った人もいると見られています。。
 
 当時の人々はしんぼう強くはたらき者でした。少々の苦しいことには耐える力がありました。移民した人も生活をしまつしてお金をため、よくはたらきました。これには、安芸門徒(あきもんと)といわれるように広島県は真宗(しんしゅう)のさかんなところですから、その教えも少なからず影響(えいきょう)していたと思われます。質素(しっそ)な生活をして倹約(けんやく)につとめ、故郷(こきょう)に錦(にしき)をかざるという考え方、ばくちなどで身をくずさず、一日一日をしんぼうしてあみだ様に感謝する生活、このような精神態度(せいしんたいど)が海外への移民を成功に導(みちび)いたのでしょう。
 
 真宗の教えを大切にするということでは次のような話も伝えられています。江戸時代の後期、日本の各地では飢饉(ききん)があったりして、生まれた子供を育てることができない貧しい農家では、「間引(まび)き」といって生まれたらすぐに子供を殺してしまうようなことも行われていました。ところが、広島県では真宗の殺生(せっしょう)を禁(きん)じる教えが浸透(しんとう)していましたので、そのようなことは行われなかったということです。(長岡藩、河井継之助(かわいつぐのすけ)の旅日記に書かれている)

 また、明治になって養蚕(ようさん)がさかんになり、生糸工場(きいとこうじょう)でたくさんの女工(じょこう)たちが働くようになりましたが、かいこのまゆから生糸を取り出すためにはまゆを熱湯(ねっとう)につけて中の幼虫(ようちゅう)を殺さなくてはなりません。真宗の教えが浸透(しんとう)している広島の女工たちにはこのことが大変抵抗(ていこう)があって、納得(なっとく)させるのに苦労したという話が残っています。
 このように真宗の教えがよく浸透していた広島県の若者だからこそつらい労働にも耐(た)えて海外移民で成功をおさめたといえなくもないのです
 
 戸坂村で、お金をためて送金してくる人やお金を持って帰ってくる人が多くなってくると移民の応募者(おうぼしゃ)もどんどん増えていきました。募集(ぼしゅう)の人数よりも応募者が多かったら抽選(ちゅうせん)になりましたが、平均して4倍という競争率(きょうそうりつ)がものがたるように移民の希望者はたくさんありました。
 
移民によって得られたお金
 
 移民した人はそれこそ食費や生活費を節約(せつやく)して戸坂村で待っている家族に送金したり3年間のけい約を終えて大金を持って帰国したりしました。
 
 ハワイで働いて得られるお金は月給9ドル、食費6ドルで計15ドルでした。日本円で計算すると17円65銭です。これは当時の日本国内で働いて得られるお金の3〜7倍という高い収入(しゅうにゅう)でした。
 
 ハワイからの送金は、村役場にまず通知があり、そこから家族に連絡されて、郡の役所でお金を受け取るようになっていました。ですからハワイから送金されてくるという知らせが入るとうわさはパッと村中に広まり、みんなに知れわたります。移民にいけばお金が手に入る、というような気持ちになった人も多かったでしょう。
 
 実際(じっさい)、ハワイに移民した人の家はたいてい前よりゆう福になっており、借金(しゃっきん)を返したり、貯金(ちょきん)したりできています。お金をためて帰ってきた人の話を聞いたり、ハワイに行った知り合いからすすめられたりしてハワイ移民を決意する人もたくさんいたようです。
 もちろん成功した人ばかりでなく、病気になって死んだり、うまくいかなくて身をもちくずした人もいたでしょうが、このころハワイから送られてきたお金の総額が戸坂村で1年間に使うお金の3.5倍だったのですからそうとうなお金が送られてきているわけです。また、移民の一人が持ち帰ったお金が最高で736円、最低で100円だった(明治19〜22年)ということですが、そのころの戸坂村の農家1戸あたりの収入が1年で39円34銭7厘(りん)でひとりあたりに直すと7円85銭ですからみんなが目をむくのもあたりまえです。
 
それからの移民の動き
 
 そのような成功者の話も伝わって、不景気(ふけいき)で仕事もあまりない日本よりはハワイに行こうという人が増え、移民の希望者(きぼうしゃ)はどんどん多くなりました。希望者が増えてくるにつれて移民をとりあつかう会社もいろいろ作られ、ますます移民がさかんになりました。ハワイだけでなく、オーストラリア、ニューカレドニア、フィジー諸島(しょとう)にも移民を送りました。それとともに不正を行う会社もあったりしてもめ事も多くなり、問題がいろいろ起こってきました。そういうこともあって政府が制限(せいげん)をもうけて許可したいくつかの会社だけに移民をとりあつかわせるようにしました。
 ハワイに渡った人の中には3年のけい約期間が過ぎても日本に帰らず、住み続ける人もいました。そしてそういう人たちが増え続け、明治27年ごろにはハワイの日本人の数は全人口の2割をしめるようになりました。急に日本人が増えてきたことはハワイの政府にとっても頭のいたいことでした。それで、移民にはいろいろな制限がもうけられるようになりました。せっかくハワイまで行ったのに手続きの問題で上陸を拒否(きょひ)され、そこからすぐに日本に送り返される人たちも出てきました。戸坂村でもそういう人が5人記録されています。
 
 明治31年にハワイはアメリカの国に併合されて移民もアメリカ本土と同じあつかいになりました。明治33年から自由移民となり、渡航費用(とこうひよう)などいっさいの費用を自己負担(じこふたん)して移民することになりました。
 アメリカ本土はもともとお金さえ出せば渡ることができたので、明治20年代から少しずつアメリカ本土に渡る人が増えてきました。ハワイの移民では希望者が多くてかなわず、アメリカ本土に直接渡っていく人もけっこういたのです。
 
 戸坂村では明治23年から始まって、明治25年から年間10人ぐらいが出かせぎでアメリカ本土に渡っています。ちょうどアメリカの西海岸は開発が進んで労働力が必要だったうえに賃金(ちんぎん)がハワイよりも高かったのでアメリカ行きを選ぶ人が増えたのです。戸坂村では次第にハワイよりもアメリカに移民する人の方が多くなりました。
 
 アメリカ西海岸に移民する日本人が増えると、このことを良く思わないアメリカ人は日本人の移民を制限(せいげん)するようになりました。新しい移民は難しくなりましたが、アメリカにいる日本人は家族や知り合いを呼び寄せることはゆるされましたので、「呼寄移民(よびよせいみん))」が多く行われるようになりました。結婚相手を日本から呼び寄せたり、同じ村の近所の若者を家の手伝いをする者として呼び寄せたりしたのです。結婚相手がどんなひとかも知らず、ただ1枚の写真を手にしてアメリカに渡っていった女性や夫のいない結婚式を日本であげてアメリカに渡った女性もいました。日本にいったん帰ってお嫁さんを探し、結婚式をあげて夫婦としてアメリカに帰国するにはたくさんのお金が必要だったのでそのような方法でおよめさんを呼び寄せたのです。これを「写真結婚」とか「写真花嫁」とよびました。
 
 日本人のおよめさんはたくさん子を産み、日本人家族はどんどん増えていきました。それでふたたび日本人に対するおそれが強まり、排日運動(はいにちうんどう)も活発になってきました。写真だけで結婚するような非人道的なことをゆるすわけにはいかないと、反対の声もあがりました。日本政府もこのことをほおっておくこともできず、とうとう写真結婚は日本政府によって禁止(きんし)されてしまいました。
 
 日本人移民が増え(ふ)て自分たちがおびやかされるという不安からアメリカのカリフォルニア州では日本人に土地を所有させないという差別的な法律が作られました。もちろん移民の人は大反対し、日本国内からも抗議(こうぎ)の声があがりましたが、結局(けっきょく)この法律は成立して移民の人たちはつらくきびしい道を歩むことになりました。大正13年には日本人移民の入国を禁止する法律までつくられました。
 
 そういうきびしい条件の生活の中からも移民の人たちは故郷(こきょう)への送金を続けました。村の寺や神社のしゅうぜんのお金まで送金して寄付しました。いつかはきびしい差別的な法律があらためられることを信じてアメリカの国でがんばったのです。
 
 でも昭和16年(1941)日本がアメリカに宣戦布告(せんせんふこく)し、ハワイの真珠湾(しんじゅわん)を奇襲(きしゅう)攻撃して戦争になったときは日系(にっけい)の人々は大きなショックを受けました。
 翌年(よくねん)にはアメリカ西海岸に住んでいた日本人移民と家族は財産(ざいさん)を処分(しょぶん)して収容所(しゅうようしょ)に入るよう命令されたのです。子どもたちの中にはアメリカ市民権を持っていた子もいたのにこのような差別的(さべつまと)なしうちをうけたのです。戦争が終わるまで日本人移民の家族たちはさばくの中につくられた強制収容所(きょうせいしゅうようしょ)で不便な生活を強(し)いられました。
 
 戦争の時このような不当なあつかいをうけた日系人(にっけいじん)に対して、昭和63年4月アメリカ連邦議会上院(れんぽうぎかいじょういん)は13億ドルのほしょう金をしはらうことを決めました。戦後、日系アメリカ人はアメリカの社会の中でめざましい活やくをし、さまざまな人権問題(じんけんもんだい)の取り組みをすすめ、こうしたほしょう金をかくとくしていったのです。今アメリカで暮らしている日系の人々は社会の中で大切な役割をになっている人も多いとききます。長い間の苦しいたたかいの後に、日系人たちはアメリカ社会の中でそれなりの地位を築いていきました。アメリカの社会で成功をおさめた人の中に戸坂村から行った人もたくさんいらっしゃることでしょう。
 
アメリカ村
 
 戦争が終わったころ、昭和20年代、芸備線の車窓(しゃそう)から見る戸坂の村の家々の屋根(やね)はかわらぶきが多かったということです。田畑はそんなに広くないのに、かわらぶきの屋根がものがたる生活の豊かさはいったい何がもたらしたのかというと、それは移民の人々が海外から送ったり持ち帰ったりしたお金です。
 
 戸坂から日本国内の他の場所に出て行った人の数の2倍以上が海外に移民で出て行っているのです。だいたい2軒(けん)に1人の割合で移民に出ているということです。人口の少ない村にしては移民の割合がたいへん多いので、戦前から戸坂村は「移民村」として有名でした。そういうところから「アメリカ村」というふうにもよばれていたそうです。
はじめに
第1章   大むかしの戸坂
第2章   戸坂という地名
第3章   農業の村、戸坂のくらし
第4章   災害とのたたかい
第5章   移民の村、戸坂
第6章   原爆と戸坂
第7章   水源地、戸坂
第8章   広島市戸坂町
おわりに