戸坂の歴史
      
第4章  災害とのたたかい
 
 今の戸坂の町のようすを見ると、戸坂の町が何度もこう水や山津波(やまつなみ)などの災害におそわれたなどとても信じられないかもしれません。でも、戸坂のそばを流れる太田川は昔は流れる水の量も多く、まわりの村々にこう水をもたらすおそろしい川だったのです。
 
太田川の流れの変化
 
 太田川は昔は安佐南区の東原・西原の西がわを流れていました。ちょうど今、安佐南区を古川(ふるかわ)という川が流れていますが、その川の方を流れていたようなのです。そして、川の名前もその地いきの名前をとって「佐東(さとう)川」とよんでいました。でも、慶長(けいちょう)12年(1607)の大こう水で川の流れが現在のように変わりました。(それで、もとの太田川を古川とよび、新しい流れの方を新川とよぶようになりました。昭和の初めごろまで太田川を新川とよぶ人はたくさんいました) 江戸時代を通じて、太田川のはんらんには広島藩(はん)も頭をなやませ、ていぼうを築(きず)いたりしてきましたが、大雨の季節になると毎年のようにこう水が起こるのでした。
 
 佐東川を舟が行き来することが多くなって上流の加計(かけ)の方から舟が来るようになりました。そして、加計のあたりを太田筋(すじ)といい、川を太田川とよんでいたのがだんだん下流の方までよぶようになったのが「太田川」という名前のいわれです。「佐東川」という呼び名は江戸時代の中ごろにすたれていきました。
 
こう水の記録
 
 戸坂は太田川の流れが変わったために、太田川が口田(くちた)の方から流れてきて、大きくカーブしているところの曲(ま)がり角(かど)にあたるようになりました。それで大雨が降ったりして水のかさが増し、流れが速くなってカーブにさしかかる所ではそまつなていぼうだともちません。
 
  江戸時代から洪水の被害についてはたくさんの記録が残されていますが、この状況(じょうきょう)は明治になっても変わりませんでした。戸坂は毎年のようにこう水に見まわれています。
 
 特に大正8年(1919)のこう水はこれまでにないような大きな被害(ひがい)をもたらしました。
 はげしい雨が降(ふ)り続き、千足のていぼう約360メートルが水の勢いでくずれ、ゴォーッという音とともににごった水がうずを巻(ま)いて一気に千足の家々をおそいました。
 村の人たちは少しでも高いところをめざして神社の境内(けいだい)などに逃(に)げました。村はたちまちどろの海となり、14けんの家が流されてしまいました。その他の家も、のき先まで水につかり、橋も流されてしまいました。だく流は千足からくるめ木の方まで押(お)し寄(よ)せ、可部(かべ)の方から流されてきた家や木材、こわれた家具(かぐ)などが竹やぶにひっかかったりして、大変なありさまでした。
 こわれた家が45けん、水につかった家が62けん、22ヘクタールの田畑がどろにうまり、45ヘクタールの田畑が水につかりました。村の半数の家が被害を受け、被害額(ひがいがく)は30万5390円にものぼりました。当時の村の予算(よさん)が1万円に満(み)たないぐらいだったことを思えば、被害額の大きさが想像できるでしょう。このこう水は全国的に見てもそうとう大きなもので、過去20年間の全国のこう水の中で第三位となる被害を出しました。
 
出江(いずえ)の山つなみ
 
 こう水とならんでこわいのは集中ごう雨による山つなみ(山くずれ)でした。
 大正15年(1926)9月8日から11日にかけて降った雨は357ミリで、それまでの最高記録160ミリ(明治38年)を2倍以上も上まわりました。その雨量(うりょう)のすごさは「雨がたらいの水を移すように降った」と表現する人もいたほどです。出江の奥(おく)の金鹿(きんしか)の谷で10カ所も山くずれが起こり、出江の谷は全部流れて家も1けん流されました。またほかの家も家の中まで土にうまってしまいました。
 この山つなみのことは長く人々の記憶(きおく)に残りました。
 
昭和14年の干害(かんがい)
 
 反対に雨が降らず、日でりの害を受けることもありました。
 雨が降らないと作物がかれてしまいます。昭和14年(1939)には西日本一帯(いったい)が大変な干害(かんがい)にあいました。百年に一度の干害と報(ほう)じた新聞もありました。
 各地で雨ごいの儀式(ぎしき)も行われましたが効果(こうか)はありませんでした。
 戸坂のまん中を流れる戸坂川とため池が農業用水として使われていましたが、あまり豊富(ほうふ)な水量とはいえず、戸坂川もじきにかれてしまうありさまでした。 
 戸坂の北部には太田川から水をくみあげるポンプがついていましたので(「水をめぐる争い」のところを見てください)何とかしのぎましたが、その他の場所ではまったく作物がとれなかったり、減収(げんしゅう)を余儀(よぎ)なくさせられたりしました。
 この時の被害(ひがい)がしんこくだったために、さっそく次の年にかん害の対策事業(たいさくじぎょう)がおこなわれています。それによると、流谷(ながれだに)・竜泉寺(りゅうせんじ)・くるめ木・尾上・理寛寺のため池を改良すること、東森に水をくみ上げるポンプを新たにつけることなどがもりこまれています。
 
太田川改修(かいしゅう)工事 
 
 昭和18年も7月・9月と2度にわたる大きなこう水にみまわれ、太田川流いき全体で約1000万円にのぼる被害を出しました。
 特に9月18日から20日にかけての台風(たいふう)が被害を大きくしました。
 戸坂の4割の家が家を流されたりこわされたり、水につかったりしたのです。ちょうど戦争中だったので男手(おとこで)が足りず、5年生以上の子どもたちもていぼうの修復(しゅうふく)や被害にあった家の手伝いにかりだされました。
 戦争中でそれでなくても食べ物には不自由していた時代でしたので、被災(ひさい)した人々への救(きゅう)えん食料は地域でまかなうしかありませんでした。

 昭和20年9月18日には枕崎(まくらざき)台風が日本をおそい、さらなる被害をもたらしました。このときは戸坂に原爆から逃(のが)れて来た人がたくさんいましたので人口も多くなっており、原爆で身も心も疲(つか)れ切っていた人々に追(お)い打(う)ちをかけるようなしうちとなりました。
 
 こう水をいくたびもくり返す太田川をなんとかしてほしいと、太田川改修(かいしゅう)工事の要望(ようぼう)は地いきの人から何度も出されていましたが、なかなか手をつけられずに来ていました。
 昭和3年ごろ、広島港を修築(しゅうちく)する動きがあって、そのためには太田川の改修もしなくてはならなかったので、急に太田川改修工事のことが取り上げられるようになりました。そして、国にはたらきかけた結果、昭和7年から15年にかけて改修工事をおこなうことが決まりました。
 昭和8年、工事は下流からだんだん中流へと移ってきていましたが、戸坂村での工事はなかなか手をつけられず、とうとう10年がたって昭和18年の大こう水をまねいてしまったのです。
 たまりかねた村人のはたらきかけにより、工事は昭和21年9月に再開(さいかい)されました。そして、足かけ4年半をかけてやっと昭和26年3月31日に戸坂ていぼうは完成したのです。
 
水をめぐる争い  
 
 農家にとって水は命です。こう水も困(こま)るし日照(ひで)りも困ります。必要な水を必要なほどほしいのです。それで、田や畑に引く水をめぐっていろいろなとりきめが細かいところまで決められ、みんなが公平(こうへい)に水を使えるよういろいろ工夫してきました。
 太田川のこう水は農民にとっていちばんの心配のたねでした。それで、こう水にならないように太田川にていぼうを築いたりしてきたのです。
 
 ところで太田川は戸坂の村だけを流れているのではありません。いろんな村や町を流れて海に注いでいるのです。それで、どこかの村がていぼうを新しく作ると、場合によっては他の村にこう水が押し寄せるといった問題も起こってきました。
 
 戸坂よりさらに太田川の上流に行くと八木というところがあります。
 八木の比原河原(ひばらかわら)は古川と太田川の分かれ目にありました。そこから今の安佐南区川内・中筋・古市のあたりに用水路が引かれていました。
 
 ところが明治43年(1910)それらの村が用水路に土が流れて入り、うまってしまうのを防ぐためという理由で勝手に堤(つつみ)を作りました。すると、ふつうだったら、水が増えたら比原河原に流れこんで下流がこう水にならないのに、堤ができると増(ふ)えた水が他の村にこう水をもたらすおそれが出てきました。
 
 心配した戸坂・口田・落合(おちあい)・深川(ふかわ)の村は、こぞって八木比原河原の堤(つつみ)に反対運動を起こしました。この問題は安芸郡の役所に訴(うった)えられた結果、堤は取りのぞかれることになったようです。

 でも、それからも昭和5年にはまた八木比原河原でていぼうを築こうとする動きがあって、それに反対しようと戸坂村の村長たちも口田村役場に集まる動きを見せました。この問題はしばしば争いの種になったのではないかと思います。
 
 また、戸坂は昔から水の便があまり良くありませんでした。主な水源(すいげん)は戸坂川と集落(しゅうらく)ごとのため池でした。戸坂川は日でりが13日も続くと水不足になり、30日も続くと涸(か)れてしまうといわれていました。それで、江戸時代から戸坂の北部の田にはとなりの小田村から余(あま)った水を分けてもらう用水路(ようすいろ)が引かれていました。そしてその用水を使わせてもらうために小田村の地主(じぬし)に米を差(さ)し出(だ)していました。また、用水路の修ぜん費などの費用も分たんしていました。このとりきめはずっと続いていましたが、小田村の人とうまく交しょうができなかったら、小田村で余った水でも戸坂村までまわさずに途中で太田川に流してしまうということもありました。
 
 明治45年(1912)にこの不便さを何とかなくそうということで、戸坂村の有力な地主や前の村長などが中心となって2135円でポンプを買い、惣田(そうだ)の千足ふちに備(そな)え付(つ)けて水をくみ上げるようにしました。
 それで、小田村から水を分けてもらう必要がなくなったので大正元年から米を小田村の人たちに差し出すのをやめました。また、用水路にともなう経費(けいひ)を分たんさせられていたのも支払うのをやめました。ところが、戸坂村からのそういった収入をあてにしていた小田村の人たちは一方的にそのとりきめをやぶった戸坂村の人におこりました。そして大正6年(1917)1月8日に裁判所(さいばんしょ)に訴え出ました。大正12年(1923)、裁判の結果、話し合いで戸坂村の農民が小田村の農民に421円の和解金(わかいきん)を支払って決着(けっちゃく)することになったということです。
 
 田畑で作物を育てるということにはこうした水をめぐるたたかいもつきまとっていたのです。農家の方が田に水を入れるためにいろいろ考えていらっしゃいます。田のあぜ道などに遊び半分で入って、水の取り入れ口をこわしたり、板などをはずしたりぜったいにしないよう気をつけましょう。
 
はじめに
第1章   大むかしの戸坂
第2章   戸坂という地名
第3章   農業の村、戸坂のくらし
第4章   災害とのたたかい
第5章   移民の村、戸坂
第6章   原爆と戸坂
第7章   水源地、戸坂
第8章   広島市戸坂町
おわりに